縄文時代からクジラを食べていた日本人
日本人とクジラとのつきあいは、有史以前に遡る。8,000年から9,000年前の縄文時代の貝塚から、たくさんの鯨類の骨が出土している。
たとえば縄文時代の前期から中期のものと言われる長崎県平戸市にあるツグメノハナ遺跡の貝塚からは、たくさんのクジラやイルカ、サメなどの遺骨が出土している。クジラの解体や皮剥などに使ったと思われる石器も出てきている。
興味深いのは、クジラの骨の加工品も出土していることだ。箸のような突き刺す物や、首飾り、腕輪などの飾り物である。
日本列島の近海は、北からの親潮、南からの黒潮が合流するので、もともと多くの魚が集まる。それを追いかけて、クジラがやってくるので、日本近海は世界で有数のクジラの多いところなのである。
海流に乗ってやってきたクジラが湾内に迷い込み、浅瀬に乗り上げて動けなくなることも少なくなかった。縄文時代には、こうしたクジラを捕獲していたと思われる。
弥生時代に入ると、船を使って、湾内に迷い込んできたクジラを捕獲する、より積極的な捕鯨が行われたと考えられている。長崎県壱岐市の原(はる)の辻遺跡から出土した約2,000年前(弥生時代中期後半)の甕棺(かめかん)には、捕鯨の絵が残されている。
興味深いことに、縄文時代、弥生時代ともに、複数の集落から同じクジラの個体の骨が出土していることが判明している。すなわち、クジラが一頭揚がったら、かなり広い範囲の集落に肉が配られ、近隣で分かち合っていたようだ。
久治良(くじら)、勇魚(いさな)
古事記、日本書紀、風土記、万葉集など、日本で最初の文献類にも、すでにクジラが登場する。
古事記には神武天皇がクジラを食べたという記述がある。原文ではクジラは「久治良」と表記されている。
「常陸国風土記(ひたちのくに、ふどき)には、現在の茨城県久慈(くじ)郡の地名は、そこにある丘のかたちがクジラに似ていることから、「倭健命(やまとたけるのみこと)が久慈と名付けた」とある。
クジラは勇魚(いさな)とも呼ばれ、クジラをとる人を「いさなとり」と呼んだ。「いさな獲り 海の浜藻の」と、「いさなとり」が海にかかる枕詞になっている歌が、日本書紀に出てくる。
万葉集でも「いさなとり」という枕詞を使った歌が12首もあり、当時の貴族階級の生活に、クジラが浸透していた様子が窺われる。
奈良時代には仏教の影響力が強く、肉食禁止令が出るほどであったが、海で獲れるクジラは「勇魚」、すなわち海の魚と考えられていたため、制約はなかったようだ。
平安時代にはクジラが捕れると、その肉を塩や醤油、味噌につけて京に送った。これを京の都に住む貴族や上級武士たちは、好んで食べていた。
室町時代になると、文献の中でクジラの記述が飛躍的に多くなる。当時、位の高い貴族や武士の宴会では、「式三献」という儀式があった。杯が酌み交わされてから、海の物、山の物、野の物、里の物という順に食べ物が出てくるのだが、海の物の中では、鯛(たい)、鯉(こい)に次いで鯨肉が出てくる。
室町末期に書かれた『四條流包丁書』という料理書には、食材としての魚の格付けが載っているが、そこでは最高の鯉の次がクジラなのである。
クジラは普通の魚よりもずっと味が濃厚で、活力源となるタンパク質や脂肪も豊富である。おいしく、栄養源としても優れた食材として、珍重されていた。