いじめがないクラスには、いじめをしない正義感の強い生徒が集っていて、いじめがあるクラスには、問題がある生徒が集まっているという訳ではなく、その差はほとんどないというのです。
たいていの子は、いじめはよくないことと思っているけど、自分一人でいじめを止めるほどの勇気もない…。いじめが起きたときに、それを止めようと思う人が40%いれば、それに続く人が増えて、いじめは続かなくなる、反対に、止めようと思う人が40%を下回ると、止めようと思った人も、孤立するのが不安になって、どんどん傍観者の側に回ってしまい。いじめが深刻化する。大きく異なる2つの結果も、最初の違いはほんの少しなのです。
そのほんの少しの差は、どこから生まれるか…。例えば、担任の先生が、金八先生のような熱い先生で、常日頃から、いじめがいけないことを熱く語り、何かあったら相談に乗ってもらえるという安心感を与えていたら、クラスがいじめへの臨界点を越えることはないでしょう。
逆に、担任の先生までも、弱い立場の人を追い込めるような言動をしていたら、いじめ黙認側が連鎖的に臨界点を越えてしまい、ほとんどが、いじめを見てみぬ振りをする傍観者になってしまうのです。だから、先生の存在は大きいのです。
と同時に、問題の解決のために賛同者を増やすとき、最初から全員を目指さなくてもいいということです。世の中の多くの人は、他人の動きを見てから自分が次の行動を決めているのです。協力行動を選ぶ人が臨界点を少しでも超えれば、あとはドミノ倒しのように協力する人が増えるのです。