さて、三つ目の「構造的暴力」に行きましょう。
ある意味で「構造的暴力」というのは「人の命が軽い」ということになります。
災害が多かったり、あるいは政治犯の収容所などが多く、簡単に人が殺されてしまったり、あるいは、疫病で人がすぐに死んでしまうということになることがあります。
このような状況の時には、人間の心理的にはどのようなことが起きるでしょうか。
まずは、自分の大事な人が亡くなれば、基本的には「悲しく」なります。
しかし、人間の心理というのは、うまくできているもので、基本的に、自分の精神が壊れないように、一定の感情を超えてしまった場合は「慣れる」という状況が出てくることになります。
まさに、「人の死の悲しみに慣れる」という感じです。
「泣いていてもしょうがない」と吹っ切れるとか開き直るというのではありません。
「悲しみという感情が飽和状態になる」という感覚でしょうか。
そして、ここからが問題で、いくつかの感情が別々に沸き上がります。
その強弱は違いますが、そのいくつかというのは「神・運命を呪う」「自暴自棄になる」「他人を同じ目にあわせようとする」という感じです。
飽和状態の恐ろしさは、まずは、神や運命を信じ、成仏や天国に行くことを祈りますが、そのうち自分もそちらに行きたいと思うようになります。
その次に、神を呪い、そして、幸せそうなほかの人々を呪い、嫉妬するようになるのです。
このことから「悲しみの連鎖」が始まります。
人間は弱いので「誰かを恨まなければ飽和状態から脱することができない」という感じになるのです。
その感覚から「人の命の比重が軽くなる」ということになります。
もっと言えば、「死んだ方がよい」というような感覚になるのです。
イスラムの自爆テロなどは、「今を生きているよりは、死んで神のもとに行った方が幸せ」ということになります。
「死ぬ」ことよりも「生きているほうがつらい」という感覚は自殺の定番ですが、これが社会的なコンセンサスをとると、人の命を軽く考える集団ができ、死を恐れない軍隊ができるということになります。
「生きる方がつらい」が、「なぜ自分たちだけ」というような嫉妬につながると、まさに、軍事的なオプションが出来上がるということになるのです。
なお、この場合は「戦争」だけではなく「テロ」などもこの中に含まれるということになります。
さて四つ目は「民族主義」です。
現在「民族」を自称している集団は世界で5000ほどあります。
もちろん、5000もの民族が存在しているのか、それが混血などはなく、純粋な民族といえるのかなどはかなり疑問をもちます。
同時に、地球上に国家を5000も存在させるのは不可能という感じがします。
そのような場合、単純に、どこかの民族がどこかの民族を支配するという構造ができます。
もちろん「同じ国民」ということで同朋意識があればよいですが、基本的には「上下関係」もっと言えば「差別」が生まれてきます。
そして、その民族による独立や不満が出た場合、これは戦争に発展します。
このことに関しては、前の第17話の、民族テロと宗教テロを語った「第17話 テロ報道に見る地域独立紛争と近代国民国家の限界」で詳しく語ったと思います。
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