独裁化する習近平が、自らの思想を共産党規約に明記させた意味

 

習近平の自信たっぷりの自己認識

言うまでもなく、現代中国を導く思想として世界が認知しているのは「毛沢東思想」であって、改革・開放の道を拓いたあの鄧小平にしても「理論」とは呼ばれても「思想」と呼ばれることはなかった。ということは、習は自らを、中国革命を成功させ中華人民共和国を建国に導いた毛に匹敵する指導者として位置付けているのだろうか。いや、別に鄧を飛ばすつもりはないらしいことは、大会の開会挨拶の中で述べた「站起来立ち上がる)、富起来豊かになる)、強起来強くなる)」という表現を見れば分かる。中華民族がアヘン戦争以来の屈辱から立ち上がって建国したのが毛時代、改革・解放で経済建設がようやく軌道に乗ったのが鄧時代、そしてこれからいよいよ経済強国・軍事強国を目指していこうというのが習時代──というわけである。

この「3大巨峰」史観とも言うべき自分自身の位置付け方は、この5年の任期が終わってみなければ分からないが、まあ意気込みとしては妥当なものと言えるだろう。しかし、このことを、胡錦濤=前総書記、江沢民=元総書記を招いて左右に座らせたその壇上で言い放って、胡も江も、その前の趙紫陽も胡耀邦も華国鋒も、つまり文革後に党総書記もしくは党主席の座に就いた誰もが(鄧は党の肩書きは中央軍事委員会主席のみ)その名前を冠した「時代」に値せず自分だけが「習時代」を名乗るのだと主張するのは、大変な自信の表れと言えるだろう。

それにしても、習に果たして思想があるのかどうか。言葉の定義にもよるだろうが、それこそ「毛沢東思想」を中学生の頃から読み耽ってそれを自分の基礎教養の一部として生きてきた私からすれば、思想という以上、前人未踏の、とまでは言わなくとも、何らかの程度は他からは際立つ独自の哲学的もしくは方法論的な基礎の上にそれなりの体系を以てまとめられた思考の塊のことであって、そうであればこそ各国語に翻訳されて世界中で読まれるだけの普遍性も持つはずである。

ある中国人に「習思想を知るには何を読めばいいか」と尋ねると、即座に「それは19大会の報告でしょう」と言うので、日本語訳で60ページ近いそれを通読した。しかし、それはあくまで国家建設の戦略方針の書としてはよく出来ているとはいえ、思想というものは何ら感じられなかった。毛沢東を読めば、「そうか、自分もこういう生き方をしよう」とか、「この考え方は日本の社会変革を考える場合に応用できそうだ」とか、さまざまな知恵がシャワーのように降りかかってきて目眩く思いがするけれども、習報告を読んでも「なるほど、中国はそう進んで行くのだな」という知識が得られるだけである。

私はこの「習近平思想」って何だ? という疑問を、失礼にならない程度の表現ですいぶんたくさんの中国人や中国に詳しい日本人学者などにぶつけてきたが、未だに納得出来る答えに出会っていない。この点に関しては今後の取材と研究に委ねるものとして留保しておく。

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