いじめも、欲の発露の一種である。暴力・暴言を振るうことによって、みじめな自己顕示欲を満たす。相手を痛みつけて相対価値を下げることで、脆い自分の存在価値を確かめたいという欲望。大人にも子どもにも同じようにある。脆くて弱い人間が偽りの「安心感」を得るための、卑劣で哀しい行為である。
ちなみに、痛みつける相手は、自分より価値の高いと思える相手、あるいは罪が深いと思える相手ほど、快楽効果が高くなる。特に素晴らしい人物が「磔(はりつけ)」になった時は、普段弱い人間ほどつるんで「石を投げる」行為に及ぶ。ここぞとばかりに「正義」を振りかざして、快楽を得る。
誰かに落ち度があっても、だからいじめていいということにはならない。キリストの「あなたがたの中で罪のないものが石を投げよ」という言葉があるが、実に聡明である。
実に嫌だが「いじめの快楽」を引き起こす現状がある。母親の「抱っこ」等の根源的な部分が不足して、自己の存在感を満たしきれていない子どもが相当数いる。
ここに人間の「負への欲望」が根本にある以上、根本的にいじめをなくすというのは、理想論ではあるが現実的でない。全員の人間の負の欲望そのものを「浄化」できればいいが、この世界の環境、状況を見ると、到底望むべくもない。子どもの周りにも、負の欲望を引き起こす情報が溢れているのである。いつでも「ある」前提で、対処できるように常に構えておく必要がある。
人間の抱える、負へのニーズ、欲望。目を背けたくなるが、教育において避けては通れないと感じた、久々にテレビを観ての出来事だった。
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