「半農半電脳記者生活」のきっかけを作った同志・藤本敏夫のこと

 

私と彼とは、同じ昭和19年生まれで、学生運動の時代から、大学も党派もかけ離れてはいましたが、遠目で見て一目置き合っているような関係でした。私は「同志社に凄い奴がいる」と思っていましたが、彼もまた「早稲田には変な奴がいる」と思っていたことを、後になって告げられました。10年前でしょうか、彼が参院選に出ることを決意した時には、相談があって、麻布十番のおでん屋で長い時間、語り合いました。

8年前にわれわれが50歳になったときに、私は突然「ああ、あと10年で還暦かあ」という感慨に駆られて、藤本らと語らって「一休会」を作りました。19年の一九と、「ここらで人生一休み」の一休をかけた会で、多士済々の方がたが集まって、仕事仕事でこのまま還暦を迎えて、やがてバッタンキューというのでいいんだろうか、人生二毛作と言うじゃないか、何か別の生き方・暮らしぶりを考えるべきじゃないか、というようなことを語り合ったのでした。

その中で藤本は、人生二毛作というなら、まさに土に足をつけた“農的生活”をめざすべきだと主張しました。そして私をはじめ何人かを帯広の牧場や鴨川の農場に連れて行きました。私は、それにすっかり魅せられて、それ以来、帯広に年に何回か通って山野で馬を乗り回したり、鴨川で農林業ボランティアや棚田トラストの活動に精を出したりすることを生活の一部とするようになって、人生が大きく様変わりしてしまいました。さらに、自分たちがそうするだけでなくて、農村から都市へという流れを、百年目にして大逆転させるための帰農運動を作り出すべく、さまざまな働きかけを行ってきました。

彼が最近10年間ほど何を考え行動してきたかは、ちょうど彼の死の翌日に発売となった『現代農業』増刊の「青年帰農」特集に載った彼のインタビューに、よく集約されていると思います。本書の第4章にあたる文章がそれです。この季刊雑誌は、いち早く「定年帰農」という言葉を打ち出したことでも知られる、農と食にかかわる思想・文化誌として、藤本も常々「いつも世の中の先を行っている」と高く評価していたものですが、それが今度は「青年帰農」と言い出して、中高年や退職者ばかりでなく、学生や若い人たちのあいだにも、農業と農的生活に目を向ける人が増えていることを、豊富な事例を挙げて伝えました。「定年帰農」が「青年帰農」へと広がりつつあることを見て、藤本がどれほど喜んだことか、想像に余りあります。

鴨川自然王国で国王と言われた藤本が、還暦を迎えることなくいなくなってしまって、どうしたらいいかわからない心境ですが、帰農運動の拠点としての鴨川自然王国を、どう継承し発展させていくか、登紀子さんと相談しながら担っていくことが、私の使命だと思っています。

藤本はいつも同志を求めていました。ある時は激しくアジり、ある時は理路整然と説得し、またある時は背を向けて「お前ら、俺の背中を見ればわかるだろう」と突き放すような態度を取り、そして周りの者がその気になると、その時には彼は、もっと先へ行ってしまっているという風でした。それが彼のスタイルでしたから、仕方がないことだったのでしょう。そして今、われわれは最終的に「投げかけられたまま」となりました。それにどう答えを出すか、一人ひとりが問われているのだと思います。万感を込めて、ありがとう、藤本。そして、さようなら……。

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