「半農半電脳記者生活」のきっかけを作った同志・藤本敏夫のこと

 

藤本の遺言としての「農的幸福論」

それから後の彼の活動と思考を跡づける文献はいくらでもあるが、一冊だけに絞れば、加藤登紀子編『農的幸福論』(家の光協会、02年12月刊)だろう。「藤本敏夫からの遺言」というその副題にあるとおり、死の直前まで書き綴っていた約80枚の原稿を中心に登紀子さんが編んだ遺稿集で、その末尾は「同志・藤本敏夫への挽歌」という次のような高野稿で締めくくられている。これは葬儀の時に私が原稿なしで話した弔辞をほぼそのままに復元しながら、この本に相応しいように若干の修正を加えたもので、ここまでの記述と一部重なるが、歴史的文献の1つとして再録しておこう。

同志・藤本敏夫への挽歌

同志・藤本敏夫が死んでしまいました。それは一つの戦死だったと思います。病と最後の最後まで戦っただけでなく、何とかしてこの世の中を変えようとして、病院を抜け出して人に会い、会議を召集し、だれかに文書を送りつけて、その死の直前まで戦うことを止めませんでした。ある程度まで本人も周りも覚悟していたとはいえ、しかし、あまりに唐突に訪れた彼の死に、私でさえまだ呆然としているというのに、加藤登紀子さんが早速に、このような遺稿集を編む作業に取り組んでくれたことに感嘆しつつ、深く感謝するものです。藤本の思想と行動をもう一度しっかりと噛み締めつつ、「後は任せろ、安心して休んでくれ」とき持ちよく彼を天に送り出してやりたいと思います。

鴨川自然王国には山賊小屋と呼ばれる集会所があって、その前には枕木で作った大きなテーブルがあり、農作業を終えて帰ってきた人たちは手足の泥を落として、そこでビールを飲み始めます。死の1年ほど前からは、農作業に加わるだけの体力を失っていた藤本は、それでも夕方には、いつもそのテーブルの議長席のようなところに座って皆を迎えました。麦わら帽をかぶり、タオルを首にかけて、長靴を履いた脚を組んで、そんな恰好をしてもいつもダンディだった彼が、「いやあ今日は申し訳ないな、何も作業ができなくて」と言って、ニコニコしている姿が目に浮かびます。そんな折り、たまたま近くに席を占めた誰に向かっても、農と食について、環境とエネルギーについて、21世紀について、真正面から語りかけるのが常だった彼の生々しい肉声を、本書の端々から感じることができます。

「同志」という言葉も古いですが、同じ志を持って、ということは同じ時代の方角を向いて、一緒に考え、議論し、行動するのがそれであるとすれば、本書の読者の皆さんの中にも、人生のある時期において、長いか短いか、ほんの一瞬であるかは別にして、彼に共鳴し、影響を受け、ある場合には人生を狂わせられるような目に遭ったりもした、それぞれの意味における同志の方がたくさんいるに違いありません。千人いれば千の“同志・藤本”像があって、そういうものが、彼が愛して止まなかった加藤登紀子さんの歌声に乗って、一つの星雲となってゆっくりと空に昇華していくなら、それが何よりの彼への供養だろうと思います。

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