「半農半電脳記者生活」のきっかけを作った同志・藤本敏夫のこと

 

その一休会の何回目の飲み会だったか、藤本が、かつて三派系全学連委員長として多くの人を惑わせた名演説の口調で、
「諸君、還暦はまさしく折り返し点である。そこから人生二毛作目が始まる。二毛作と言えば、農である。21世紀の日本は、再び農に帰って行く。農業とは言わない。業としての農は今ではプロの農家さえもが担いきれずに離れていく現実がある。そうではなくて、国民すべからく何らかの程度、土に触れ、例えマンションのベランダに置いたプランターのパセリだけでもいい、農のある暮らしを目指さなければならない」

というようなことを語った。「面白いじゃないか」ということになり、ではまず藤本が「農事組合法人・鴨川自然王国」でどんな暮らしをしているのか見に行こうじゃないかということになり、鈴木や芸能レポーターの故・梨本勝など会の有志5~6人で訪れたのが、鴨川に接した最初である。

「鴨川自然王国」での農林作業ボランティア

東京から車で1時間強という近さでありながら、日本の原風景とも言うべき里山の濃厚な光景が広がっていることにまず驚く。しかし中まで分け入ってみれば、田畑は棄て去られ森林は荒れるに任されて、村は高齢者ばかりでそれをどうすることもできないという実情に再び驚いて、以後、月に一度は王国に行き泊まりがけで農作業の手伝いや荒れた森林の整備などに取り組むようになった。

やがてそれが「棚田トラスト」会員制度として整備され、田植え・稲刈りを中心に年間を通じて月1回程度の1泊2日の行事日程を組んで多くの人びとが定期的に集まるようになり、私がその世話人役を引き受けた。藤本はその頃から自然王国の国王を自称していたので、私はさしずめ官房長官という役回りだった。

農作業や山仕事で汗をかき、夕方明るいうちから焚き火を囲んでビールを飲みつつ藤本らと語り合う中で、私は、還暦を期してこの地に転居して、エセ田舎暮らしというか、「半電脳・半農牧」的生活を探究するのだと考えるようになった。

藤本は、同志社ブンドから三派全学連委員長に上り詰め、68年に防衛庁突入事件を指揮したとして逮捕、72年に有罪確定・収監。獄中で加藤登紀子と結婚。出所後、世の中を変革するには食と農であるとの悟りから「大地を守る会」を創業するが、やがて自身が地に足を着けてモノを産み出していないことに疑問を感じ、放浪の末、81年に鴨川の山中に居場所を見い出し「鴨川自然王国」を設立する。鶏卵や納豆などの頒布ネットワークを作ったり、盛んに活動したようだが、その時期は私は触れ合っていない。

私と藤本は、学生運動の時代に、党派も大学も違って直接の触れ合いはなかったが、遠目では見知っていて擦れ違えば会釈する程度の関係だった。彼の出所後は何かの集会などで出会えば帰りにちょっと一杯飲んだりすることもあった。92年の参院選に彼が環境政党「希望」を結成して自身をはじめ全国で9人を立てた時には、呼び出されて語り合い、彼をその方向に後押ししている秦野章=元警視総監らの勢力が余り感心できないこと、政党のアジェンダが未熟でいかにも素人めいていて(気持ちはわかるけれども)説得力に欠けることなどを指摘し、「止めたほうがいい」と忠告した。彼は「今更、引けないんだ」と言い、私は「じゃあ仕方がないけど、その後のことを考えておいた方がいいね」と言って別れた。案の定、「希望」は全員落選した。

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