確かに、昭和の時代には、どれもこれもごくごく普通に、ためらうことなく行われた行動であり、ありふれたコミュニケーションだったかもしれません。でも、その陰で、嫌だった人もいたでしょうし、傷ついた人もいたはずです。
そもそも新しい言葉が生まれるのは、その言葉がよく当てはまる問題があっちこっちで起こり、何らかの共通ワードが求められるからに他なりません。
本当は「助けて!」とSOSを出したいのに、そこに何もないかのごとく無視され、「仕方がない」とあきらめたり、泣き寝入りしていた人たちを、共通ワードがあれば救えるようになる。セクハラ、パワハラ、マタハラ、という共通ワードが生まれ、「ノー」と言えるカードを、「私」たちは手に入れたのです。
私の知人は学生時代に先生から頭をなでられ、すごく不愉快だったと言っていました。一方、私は学生時代に剣道部でしたが、先生から指導を受ける際に腕を触られたことはありませんでした。それでも先生は常に、私たち部員と一緒に汗を流し、勝った時は一緒に喜び、負けた時は励ましてくれた。先生は私たち生徒が大人になってからも慕われ、先生のお通夜の時は、“元生徒”が会場に入りきれないほど集まりました。
米国で小学校や中学校に通っている時も、先生に頭や腕を触れた経験は一度もありません。それでも“たった1人の外国人”の私に対する先生の愛情を感じたし、先生は常に私の最強の応援だったと断言できます。
つまり、なんら臆することなく、褒める=頭をなでる、指導=腕を触るといった行為をしてしまう背景には、「生徒の主体性の尊重の欠如」があるのではないでしょうか。
極論をいえば「子供の人権」を1ミリも考えたことがない行動が、子供に嫌な思い、辛い思いを抱かせてしまうのです。
セクハラ、という、実にデリケートな問題だからこそ、「古い価値観」という言葉に縛られ思考停止に陥ってはいけないのです。単純に言葉や行動の問題として処理するのではなく、その「背後にある問題」をとことん考えることが必要なのではないでしょうか。
人間にとって、実にめんどくさい「考える作業」を徹底しなかったから、セクハラ、パワハラがいつまでたってもなくならないのです。
みなさまのご意見も、ぜひお聞かせください。
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