『鎌倉殿の13人』で注目。御開帳で賑わう善光寺、その歴史は災難だらけだった

Zenko-ji Temple complex. Hondo (Main Hall) in Nagano City, Japan
 

ところで信州・信濃の善光寺は長い歴史を誇るが、栄枯盛を繰り返した。なかでも戦国末期50年近く、本尊が諸国を放浪したのは有名な話しだし、その間、直江津や甲府の各地に善光寺ができ、僧侶等も移り、本来の善光寺門前はもぬけのから状態で、どんなすさんだありさまだったことだろう。

中世にもたびたび火災に遭い荒廃した。1185年(文治元年)、平家を討伐後、信濃など8カ国が頼朝の知行地になった。

そして1179年(治承3年)の火事の後、頼朝は荒廃しきっていた善光寺の再建に乗り出した。鎌倉時代の正史、吾妻鏡によれば、1187年(文治3年)、信濃の国の荘園領主等に再建に合力するよう強い命令を出している。

再建に協力参加しないものは所領を没収するとまで触れの中で書いている。この命令がきいたのか再建工事がすすみ、4年後の1191年(建久2年)善光寺の主要伽藍が落成し供養が行われた。

頼朝は完成した善光寺に一時も早く参詣したかったが、いろいろ重なり、妻政子との参詣が実現したのは完成してから6年後の1197年(建久8年)の春だった。

頼朝が建てた善光寺がどれくらいもったかわからないが、後世の施政者、特に徳川氏などは善光寺に厚い庇護を加えるようになった。

なお、甲斐善光寺に伝えられる「木造源頼朝坐像」は、もとは信濃善光寺にあったものとされる。

1558年(永禄元年)、武田信玄は信濃善光寺の本尊善光寺如来をはじめとする寺宝を山梨郡板垣郷に移した。源頼朝像もこの時に甲斐国へ運ばれたものと考えられる。

後に善光寺如来をはじめとする寺宝は信濃善光寺に戻されるが、源頼朝像は甲斐善光寺に残されたという。 UNCLE TELL

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『安曇野(あづみの)通信』

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