ところで、彼らが夢中になっている「スピリット・タブレット」の「スピリット」は一体何なのでしょう?
少なくとも彼らは、本物の位牌を拝(おが)んでいる時のように、自分の先祖や縁者の「スピリット」と対話をしているわけではありません。
それならば、様々なニュースやゲームなどを提供しているメディアの「集合神スピリット」から、特殊な洗脳でも受けているのでしょうか?それとも、SNSでつながっている「お友だち」の断片的なスピリットの欠片(かけら)を相手にしているのでしょうか?確かに、表層的なレベルでは、それぞれの場面で、これらの異なるスピリットと対話を繰り返しているのでしょう。
しかし、こうした表層的で多様なやり取りを超えたレベルの、個々のスピリットを統合した、もっと本質的な「何か」を想定することができるのではないでしょうか。それは、煎じ詰めれば、そのスマホの持ち主本人の「スピリット」とでも言うべきものなのです。スピリットというよりもソウル「魂」と言い換えた方が良いでしょう。
先人たちはよく、何かモノに「魂を込める」というような言い方をしてきました。「魂をこめて刀剣を造る」とか、「この彫像には作者の魂がこもっている」といった具合です。
こうした考え方は、日本をはじめとする「アニミズム的伝統」を受け継ぐ文化圏に共通した特徴のひとつです。ですから、あらゆるモノに魂が宿り得るという考え方を精神の基底にすえている人たちが仏の教えに出会えば、この世界を「山川草木悉有仏性」とみなすのはごく自然な成り行きなのです。「山や川でも草や木でも、あらゆるものに悉(ことごと)く仏性が有る」というわけです。
それなら、スマホにその人の魂が乗り移ってしまうというのも、自然なことのように思えませんか?
で、あるとすれば、現代人は、スマホという自分自身の位牌に向かって対話しているのでしょうか?いや、そうではなくて、現代人は「対話」を通して、スマホを自身の位牌と化しつつあるのです。スマホに自分の魂を込めているのです。
ということは、その人の対話が続く限り、位牌は変化を続けることになります。つまり、その人の位牌が「完成」するのは、その人の命が尽きる時なのです。
そして、そうやって完成した位牌もまた「かりそめ」のものでしかありません。位牌はその故人を偲ぶ「よすが(手がかり)」と言っても良いでしょう。その人の魂、つまり、その人の本質的なエッセンスはむしろスマホがつながっている先のネットワーク空間(サイバースペース)にあるのです。
この記事の著者・富田隆さんのメルマガ