「法の番人」を捨てた内閣法制局
ところが内閣法制局は旧宮家系国民男子の皇族養子案について、「制度設計が適切なら、憲法14条の『門地による差別』の問題は生じない、または憲法上許容される」という解釈を発表している。
こんなものに「適切な制度設計」などあるわけがない。
これは、内閣法制局がもはや「法の番人」には全く値しないということを如実に表している。
安保法制の際、それまで集団的自衛権行使を「違憲」としてきた内閣法制局に「合憲」の解釈を出させるために、時の安倍政権は人事権を行使して内閣法制局長官の首を政権に都合のいい人物にすげ替え、憲法解釈を変更させた。
それ以降、内閣法制局は「法の番人」を捨て、「権力の走狗」と化した。 いまや内閣法制局は、憲法に「白」と書いてあっても、政権が「黒」だと言えば、ありとあらゆる詭弁を弄して「憲法には『黒』と書いてある」と強弁することを使命とする機関に成り下がった。
もはや権力の道具でしかないのだ。
だが、最終的に憲法違反かどうかを判断するのは裁判所である。 憲法違反の法律が制定されたら、これは無効だと国民が提訴することだってできるはずだ。
旧宮家系養子案が憲法違反であることは間違いないのだから、そんな皇室典範改正が成立したら、違憲訴訟を起こすという手だってあるのではないか?
それは出来るだけ多くの国民が参加するようにして、全国民の関心事となる一大国民運動にしてしまえば、政治家も裁判所も無視はできなくなる。
憲法学者などからもいっぱい賛同が得られるだろうし、右も左も関係ない。 全国民が、天皇制を守るというただひとつの目標の下に統合されるのだ!
砂川事件の悪夢を繰り返すな
裁判所でどんどん論争していったら、こっちが負けることはない。 ただ懸念されるのは、裁判所までが政治権力の走狗になって、昭和39年(1964)の最高裁「砂川事件判決」のようなことをやらかしはしないかということだ。
昭和30年(1955)、東京都砂川町(現・立川市)の米軍基地拡張反対運動を巡って起きた「砂川事件」の裁判で、一審は「米軍駐留は憲法違反」という判決を下した。
ところが最高裁は完全に権力の犬と化していた。 特に当時の最高裁長官・田中耕太郎は当事者である駐日アメリカ大使と面談し、判決を覆す旨の打ち合わせまでしていた。
そうして最高裁は「高度に政治的な問題は、裁判所の判断になじまない」とかいうわけのわからない理由で一審判決を強引にひっくり返し、確定させてしまったのだ。
日本には、立憲主義を完全に蹴ったくった前例があるのだ。
だから、裁判を起こしても楽観はできない。 「皇位継承のような高度な問題は、裁判所の判断になじまない」とか言い出す可能性もあるし、内閣法制局のように厚顔無恥の詭弁を並べ立てて「合憲」にしてしまう可能性もある。
もしかしたら国会議員どもも、いざ裁判沙汰になったって「砂川判決」みたいなことを裁判所にやらせればいいと高をくくっているのかも知れない。
だからこそこれは、天皇制を守ると共に、立憲主義を守るための戦いとなる。
そもそもそれ以前に、日本は本当に立憲主義国なのかという点が問われることになる。
憲法は権力を縛る命令書である。 権力者の側から見れば、憲法は自分たちを縛る邪魔っけなもので、こんなものは無力化してしまいたいという欲求も湧くだろう。
そして、権力者がそんな欲求を本当に実行して、憲法をどうにでも都合よく解釈できるようにして、立憲主義を破壊しているのが日本である。
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