焼肉はこうして国民食になった。北朝鮮の専門家が紐解く日本焼肉史

 

「はじめに」を見ると

私は15歳で上京し、14年間の料理人としての生活を終え、29歳で独立し、4年後、33歳のときに六本木において今日を決定づける叙々苑を開業しました。そして、2016年4月、叙々苑は創業40周年を迎えることができました。おかげさまで知名度も高まり、全国的に知っていただけるようになりました。一般的に、高価格店として認知されているようですが、私どもとしては年々店舗も老朽化し、毎年のように店内改装、そして新たな出店、また、社員の将来の設計図も一緒に描かなければなりません。この三つを満たすには、会社が利益を生み、潤わなければならないのです。この私の料理人生活から、経営に携わっている立場まで、今までの経験と熱い思いをここに語らせていただきました。

とある。本書には「料理人時代」と「焼肉店の経営者」とさらには「焼肉業界発展のため尽力する」の新井社長が描かれている。

叙々苑は2016年4月現在、首都圏を中心に、札幌・仙台・金沢・名古屋・大阪・広島・博多、沖縄など、60店舗の直営店を営業している。叙々苑よりも店舗数の多い焼肉店はいくつかあるが、「創業40周年を誇る焼肉店はそれこそ数えるだけである。

今日でこそ子どもまでもが、焼肉を食べたいとか、ロースがいい・ハラミがいい、などと言うようになったが、焼肉が国民食になったのは今から30年くらい前の事か。焼肉が日本人の市民生活に定着したことを知らせてくれるのに、電話帳がある。日本電信電話公社(今のNTT)の電話帳に「焼き肉」の項目が登場したのは今から30年前の1986年の事である。

つまりこの時期に焼肉店が全国的に増加したことが分かる。もっと言うならば、「焼肉」と言う言葉が日本社会に定着し始めたのである。もちろん、焼肉店はあったが、誰もが「焼肉」などと言うことはなく、「ほるもん焼」「もつ焼き」「朝鮮料理」などとあいまいな表現で通じていた。もっとも、「焼肉」と言う文字を看板に書いたのは昭和22年開業の大阪の食道園である(昭和21年に東京で開業し、22年に大阪に引っ越し、千日前で新たに開業)が、「焼肉」という言葉が通用することはなかった。焼肉が国民食になるにはそれこそ焼肉産業に携わってきた焼肉業界の人と技があったからである。(つづく)

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宮塚利雄の朝鮮半島ゼミ「中朝国境から朝鮮半島を管見する!」』より一部抜粋

著者/宮塚利雄
元山梨学院大学教授、現宮塚コリア研究所代表。テレビなどのメディアでは決して話せない北朝鮮やアジアに関するマル秘情報、長年の研究対象である焼肉やパチンコだけではなく、ディープな在日朝鮮・韓国社会についての見識や朝鮮総連と民団のイロハなどについても語ります。
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