またもロシアに翻弄されるのか。北方領土が日本に一番近づいた日

 

日本となぜ合意に至らなかったのか

しかしながらなぜ、日本がこの話にのっていかなかったのかというと、93年にエリツィン氏は来日し細川総理との「東京宣言」にて、双方が署名。「法と正義を原則として解決すると宣言。そして、97年には橋本総理と「2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」という期限を明示した「クラスノヤルスク合意」に進み、エリツィン氏が言う「第4段階」も目前まで進んだ。

しかしながら日本は一貫して北方4島の一括返還にこだわり、「2段階返還ではだめだ、これが日本の国是だ」といっていっているうちに、ずるずると話が進まなくなった

エリツィン氏は91~99年までの8年間大統領を務めていたので、多くのチャンスがあったにも関わらず、締結できなかった。しかし、この間にどういうことが起こったかというと、西ドイツとロシアとの間でたったの1年間で東西ドイツの統合を果たしてしまった…。

政治決断できなかった日本

この当時東西ドイツの問題の方が、よほど難しいといわれていた。それはアメリカ、ヨーロッパ諸国、特に東欧などさまざまな国が関係していたからだ。コール首相が皆にいい条件を出し、かなりの金銭的な負担と、ドイツは今後軍事的な強化をしないという約束を表明し、NATOの支配下に入るといった条件も出すことによってドイツ統合を短期間で成し遂げてしまったのだ。

こういったことが達成された時期だったので、日本も思い切ったことをいっていれば北方領土が戻ってきた可能性はあったと思う。あの時期が一番のチャンスであった。それを政治決断できなかったということは、大きかったようにも思う。

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