よき人生の道連れを得た喜び
斎藤氏はまた老人方を相手にこんな経験もしている。
私は70代の方々のゼミを数年間担当していたことがあるが、その方々が子どもの頃に覚えた言葉を今でもすらすら言えることに驚いた。そして、そうした言葉を朗誦しているときの、その方々の顔が喜びにあふれているのを目の当たりにした。
(『声に出して読みたい日本語』)
子どもの頃に暗誦した言葉で意味の分からなかった所も、人生の経験を積み重ねていくうちに、ふと分かる瞬間が訪れる。嬉しい事や悲しいことがあった時に、子どもの頃に暗誦した言葉がふと思い浮かんで、その言葉の持つ深い意味に気づく。そういう経験を積み重ねると、その言葉を口ずさむだけで、自分の人生の様々な場面が思い起こされるようになる。子どもの頃に暗誦した言葉は長い人生において、自分を導き、支え、励ましてくれる道連れとなる。老人方の「喜び」とは、そういう道連れに恵まれた幸福であろう。
自分が共に生きた言葉を、また子や孫の世代が習い覚えてくれるなら、それはまた大きな喜びである。自分はこの世から去っても、自分がともに人生を歩んだ言葉は後の世代が大切に受け継いでくれる。自分はいなくなっても、自分が大切にした根っこは、後の世代が大切に引き継いでくれるのだ。
国語はこのようにして世代を貫いて民族の心の地下水脈をなす。暗誦文化が衰退したといっても、たかだかこの1、2世代のことである。現在の世代が忘れていても、国語の地下水脈はこんこんと流れ続けている。疲れ果てた身体でも、岩の裂け目から流れ出る清水を見つけて一口飲めば、そこから我々は新しい力を得るだろう。メロスのように。
ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生まれた。
文責:伊勢雅臣
image by: Shutterstock.com