本能寺は「移転先」にあり。今も京都に残る信長由来の地を巡る

 

阿弥陀寺

寺町通りをずっと北に上がり、今出川通りを超え、さらに北上すると、右側に阿弥陀寺という寺があります。この寺の境内にも信長と息子・信忠の墓があります。当時本能寺の変で共に戦った信長の側近・森蘭丸やその他120名ほどの家臣の墓もあり、「織田信長公本廟」という石碑が立っている。

阿弥陀寺の開山は清玉(せいぎょく)という僧で、本能寺の変の後、信長父子の遺体を集め、この寺に埋葬したと伝えられています。そのことは近江の坂本にあったとされています。その後この寺も秀吉の都市改造の影響でこの地に移転させられました。

総見院(大徳寺塔頭)

総見院は信長の法名です。大徳寺の境内にある塔頭(たっちゅう)の一つです。信長亡き後、秀吉がこの場所で葬儀を執り行い、諸大名に自らの時代であることを示したと伝わります。

境内には信長一族の7基の石塔が立っていて、本堂には信長の座像が安置されています。通常は非公開ですが、春と秋に一般公開されています。

建勲神社

大徳寺の南の向かい側から徒歩でいける場所に建勲神社があります。と言っても、そこはまさに小高い船岡山の中腹に位置しています。この神社は信長・信忠父子が祀られている神社です。信長が上洛した10月19日には、毎年船岡祭が盛大に行われています。

大雲院(祇園閣)

高台寺からねねの道を八坂神社方面に歩いていくと、祇園祭の鉾のような形をした建物があるのをご存じでしょうか? これが国の登録有形文化財に指定されている大雲院の祇園閣です。この地は、かつて財閥だった大倉喜八郎の別荘で、昭和3年、昭和天皇御大典記念に祇園祭の鉾を模した祇園閣を建てたと言われています。

大雲院は、1587年正親町天皇の勅命により織田信長・信忠の菩提を弔うために建てられたもので、大雲院は信忠の法名です。秀吉の時代には寺町四条に移っていたそうですが、その周辺が商業の中心地になるに従い、昭和48年に本堂が現在地に移されたとのことです。

大雲院が大昔から存在していたのですが、昭和になって移転してきた場所に祇園閣があったということで、二つの建物には特に関係はないようです。祇園閣の設計者は伊東忠太で、祇園閣は金閣、銀閣に対して、屋根が銅葺きなので「銅閣」などと呼ばれることもあるようです。

普段は非公開寺院ですが、公開されているときに是非祇園閣の上まで上ることをお勧めします。市内一望が見渡せて絶景を拝めるので必見ですよ。

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