奇跡の発明。「金芽米」「無洗米」を生み出したコメ業界のエジソン

 

完成まで30年!精米技術が米の味と栄養を変える

荒川静香さんが出演したCMでも知られる金芽米。その生みの親、社長の雜賀慶二(83歳)は、「米というのは産地、品種で味が決まるとされていますが、それより大きいのは精米の仕方です。金芽米はこれまで捨てていた糠のおいしい部分を残しているので、今までの精米の仕方よりも味がうんと上がる」と言う。

金芽米は銘柄ではなく特殊な方法で精米された米なのだ。大阪府田尻町のリンクウ工場には、雜賀自身が開発した、金芽米の精米を行なう特殊な機械がある。

そもそも米は精米によって大きく二つに分けられる。籾から籾殻を取ったのが玄米。糠と胚芽は残っている。そこから糠と胚芽を取り除いたのが白米だ。栄養価は玄米の方が高いが、おいしさでは白米、というのが一般的な見方。金芽米は白米以上においしいのに、玄米に近い栄養を持つ米だという。

「お米には糠の層と白米の層の間に亜糊粉層というおいしくて栄養成分の多い部分がある」(雜賀)という。その亜糊粉層を残したのが金芽米。亜糊粉層には旨味成分が多く、金芽米の甘みや旨味は、白米の2割増しとなる。また栄養面では、ビタミンB1は7倍、腸内善玉菌を増やすオリゴ糖は12倍もある。さらに免疫力をアップさせるLPSと言う成分を白米の6倍も含んでいるのだ。

これだけ魅力的な亜糊粉層だが、0.01ミリという薄さのため、精米する際、残すことができなかった。「普通の精米機では亜糊粉層が糠と一緒に取れてしまう」(雜賀)のだ。

その難題を雜賀は技術で乗り越えた。米の糠や胚芽を取り除く「精米」を行う精米ロールには、V字型の突起が付いている。中に玄米を入れ、精米ロールを回すと、V字型にへこんだ部分に玄米が集まり、こすれ合って糠や胚芽が取れる。この時、従来の精米機では栄養のある亜糊粉層も取れてしまっていた。

そこで雜賀は、既に確立されていた精米法を一から見直し、あらゆる可能性を探った。気の遠くなる試行錯誤の末たどり着いたのは、145度だったV字の角度を167度に広げることだった。こうすると、玄米の擦れあう力が微妙に減る。さらに精米ロールの回る速度もゆっくりにし、糠を取りながら亜糊粉層を残すことに成功したのだ。

「私にとっては米が語ってくれるんです。『ここがちょっときつく当たりすぎている』『ここが弱い』と、私なりに感じるんです。それを数えられないくらいやりました」(雜賀)

試行錯誤を始めたのは40年前完成までなんと30年の歳月がかかった。そこには思わぬ副産物も。金芽米をよく見ると、本当に金色の部分がある。偶然残った胚芽の底の部分で、ビタミンB1やEなどを豊富に含んでいる。これが命名の由来だ。

金芽米は2005年に発売開始。雜賀の執念の結晶が世に広まっているのだ。

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お米のエジソン~ 83歳発明王の秘密

雜賀には本社で毎日のようにやっていることがある。工場の組み立て室に向かい、組み上がった機械をチェック。見たり触ったりするだけでなく、機械と会話していると言う。

「機械を見ていて『ここがちょっとおかしい』と気づく。それを私なりに言うと、機械が『ちゃんと組めていない』と言ってるじゃないか、と」

雜賀はこれまで、精米機以外の機械も数多く発明してきた。例えば「色彩選別機」。精米後に、色の変わった悪い米をはじく機械だ。高感度カメラで色の違う米を識別し、エアガンで吹き飛ばすのだ。また「マルチ味度メーター」は、炊いたご飯を入れてセットすると、米の味を数値化することができる世界初の機械だ。

雜賀の発明力には周囲も驚くばかり。エンジニアリング部の佐古光弘は「発想がみんなと違うところから来るので、自分たちにはない考えで、驚くことばかりです」と言う。

雜賀は1934年、和歌山市で生まれた。実家は精米機の修理などを行う小さな工場。子供の頃からモーターや部品がおもちゃ代わりだった。

そして20代にして発明の才能は開花する。きっかけは米屋で精米機の出張修理をしていた時のこと。雜賀は客の「ここで買った米に石が入っていて歯が欠けてしまった。どうしてくれるんや!」という怒鳴り声を聞く。

当時は米に小石が混ざっていることがあったのだ。雜賀は取引先の精米機メーカーに石を抜く機械を作れないか聞いてみると、「それは無理。日本人は何百年、何千年とお米を食べて小石を噛んできた。何とかなるんだったらとっくになっている」が、答えだった。

それなら俺が作る」。雜賀は石抜きの方法を考え抜き、遂には試作機を作り上げた。それとほぼ同じ物が、現在も工場に残っている。振動させると、比重の軽い米は上に、重い石は下になる。さらに下から空気を吹き付けると、米は振動で右側に落ちていくが、石は空気で吹き上がり、左側に昇っていくというのが原理だ。

「私は自分が米になったつもりで、機械の中に入って『こうなるかな?』『ああなるかな?』と想像しながら、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返しました」(雜賀)

1961年、雜賀は27歳の時にこの石抜き機を発売。すると全国の精米機メーカーが販売契約を求めて殺到した。その儲けで、小さな町工場は大きな工場を持つメーカー、東洋精米機製作所に生まれ変わったのだ。

「『石を噛まなくて喜んでいる他の人のぶんを含めてお礼申し上げます』というお手紙を頂いて、涙がこぼれるほど嬉しかったです」(雜賀)

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