善悪の判断がつかない子供たち。結論を出さぬ「道徳」授業の弊害

 

第2点、それぞれの「時」や、「人」の立場、そして、その場所で善悪の判断も変わることを理解していない点です。

「お別れ会」の相談を始めた最初のころから、「典子がいないときに話し合い、バレー部の時は普通に接する」とか「帰る時や練習の時に誰か一人は典子のそばにいて、後からみんなに話し合いの内容を聞けばいい。」などの配慮をすれば、秘密を守りながら、誤解をまねくことなく、「お別れ会」の準備をすることができたでしょう。その意味で、初期のころならば、「言わないで練習に出るように説得すべき」の中の意見で良いでしょう。

3点目、教材の文章を最後まで読むと、何も配慮をしないで典子以外で相談したため、事態は険悪な方向に進んでいる点です。最悪な事態は、典子が仲間はずれにされたと思い込んだまま、学校にも部活にも来ずに転校することです。それを「回避するためには、どうしたら良いか」、という視点で、考えるように導くことが忘れられているように思います。

私としては、「お別れ会をするから、それを話していただけと正直に言ったら良いと思う」「そもそも典子のためなのに、典子がそんな思いをしているのに、隠す必要がないから」という意見を採用せざるを得ません。

子ども達には、必ず結論を示して教えなければなりません。結論を示さないことが子どもたちの成長を促すかのように考えるのは間違いです。必ず善を教えて不安を払拭していただきたいと思います。

ときとして、社会的に未成熟な子どもたちは、集団の空気や風に流されます。大勢の意見が正しい、大勢の人の気持ちが大事とばかりに、「ぜったい、ひみつ!」にこだわれば、大切な仲間の心に悲しみを植え付けたまま、永遠のお別れになってしまいます。ですから、声の大きい人、力関係の上下に関わりなく、「誰が正しいのか、ではなく、何が正しいのかを考える訓練」は、子どもたちにとって、とても大切だと言えましょう。

これが「みんなでいじめをしていることは絶対にヒミツ!」というケースであれば、まったく洒落になりません。隠ぺいという恐ろしいヤミになってしまうでしょう。教師は生徒に、何が正しいのかを判断し、実行できる人になるよう導くことが大切です。それができる道徳教育が望まれます。

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