なぜ、国民年金は「目の敵」にされるのか。歴史でわかる理不尽さ

 

でも記事の冒頭で書いたように、岸信介内閣の時の新安保条約成立の反対闘争エネルギーが国民年金反対運動へ向かってしまい昭和35年10月からの国民年金手帳配布の頃に「国民年金保険料なんて支払うなー!手帳は返してしまえー!」っていう運動が総選挙に負けた野党を中心として全国に広まってしまった。とりあえずの理由は国民年金は年金額が低く保険料が高い途中で死んだら支払い損という事で悪評が広まってしまった。

国民年金は国民が望んだものですが、一旦保険料の徴収が始まろうとすると安保闘争に負けた野党が腹いせで国民年金反対運動に転じてしまった。国民年金自体が反対されたというか、安保闘争のエネルギーのせいで国民年金反対の方向に向いてしまった。国民年金が次の反対運動のターゲットにされてしまったというか。なんだかよくわかんないけど反対反対っていう運動が盛り上がっていった。その徴収する保険料が戦費調達のために使われるというようにも捉えられてしまって、誤解と共に都市部を中心に反対運動が全国に広まっていった。

国民年金への理解がなかなか浸透しない中、国民年金強制加入者は1,488万人で、任意加入者は220万人という当初の目的だった80%以上の加入が達成されたからまあまあの走り出しだった。その後、昭和40年に強制と任意加入合わせて2,000万人を達成。

しかし、産業の変化で農業者や自営業者がどんどん減っていき、民間企業に雇用される雇用者(厚生年金)が急増していった。これにより国民年金保険料を支払う人が少なくなっていって、国民年金の財政が危機的になっていった。昭和60年の改正が行われるまでは国民年金厚生年金共済年金というのは別々の制度だった。

ただ、この頃はサラリーマンや公務員の専業主婦は国民年金には強制加入ではなかったが、この任意の加入だった専業主婦の人達の加入の増加により国民年金の財政が何とか支えられていた。この任意加入の人達は大体200万人程でしたが、昭和50年には600万人ほどになり、昭和55年には780万人、昭和60年には750万人というふうにかなりの人が加入していた。昭和50年から国民年金強制加入の人が減少していく中で、専業主婦の人達が国民年金財政を支えていたわけですね^^;

でもそういう人達は、あくまで任意の加入だから将来的に加入者が増えるのか減るのか確実性もなく、それに国民年金財政は変わらず危機的だった。そこで昭和60年改正(昭和61年4月施行)により、国民年金をその名の通りすべての産業に関係なく共通部分の年金(基礎年金)として各年金制度国民年金厚生年金共済年金)の加入者の頭数に応じて拠出金を出し合い国民年金の基礎年金を負担するという形に変わった。これにより国民年金財政は産業の影響を受けない安定したものとなった。

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