なぜ、国民年金は「目の敵」にされるのか。歴史でわかる理不尽さ

 

えーと、国民年金法が求められる昭和30年頃、約4,000万人の就業者がいました。しかしその中の約1,200万人程度しか年金厚生年金や共済年金恩給には入っていませんでした。つまりそれ以外の人には何の年金も保障されてなかったのであります。

昭和29年5月になって報酬に比例する年金のみだった厚生年金が、加入に比例して支給される年金定額部分と報酬に比例して金額が変わる年金報酬比例部分という形に大改正されました。まあ、建物で言うと1階部分に定額部分+2階部分に報酬比例部分という事ですね。今の1階部分は国民年金(基礎年金)が、昭和60年改正で廃止された定額部分にとって変わってますけどね。

さらにこの頃って私立学校が共済組合を作り(昭和29年1月)、また中小企業などが独自の共済組合を作ってしまおうという動きも出てきました。そういう社会の動きに刺激され、零細企業の年金制度からあぶれた人や雇用者ではない自営業者や農村の人からも僕らにも年金作ってほしい! っていう声が次第に高まっていきました。

昭和33年の総選挙では当時の2大政党として君臨していた自民党と野党の社会党も国民年金創設が最大の選挙公約だったんです。だから記事の序盤に岸総理の時代の安保反対闘争の歴史の話をしたのです^^;。投票率も確か79%くらいだったかな。とにかく戦後の普通選挙では過去最高の投票率。ちなみに女性が普通選挙に投票できるようになったのは昭和20年(女性も投票できるようになってから最初の普通選挙は昭和21年)から。女子は第二次世界大戦が終わるまで選挙権は無かった。

にしてもそれくらい国民にとっては国民年金は関心事だった。それは前回の「もし、本当に国民年金が廃止になったら我々に何が起こるのか?」で言ったように、核家族化の進行でいろんな人が老後に不安を抱き始めたからというのもある。

本当は厚生省としては、農村漁村を中心に昭和13年にできた国民健康保険を全国に適用させるのが先と思っていて、昭和32年から4ヵ年計画で国民健康保険を健康保険とか共済からあぶれた人に適用しようとしていた。3,000万人程(当時の国民の3分の1にあたる)がまだ医療保険には未適用だったから。

でも、総選挙で自民党が勝って国民全員に国民年金を貰えるようにする! って約束しちゃったもんだから、国民健康保険と国民年金創設の同時進行となっていた。
当時は国民年金に加入させようとする人の内(概ね3,300万人)、所得税を支払えてる人は約650万人とされていた。

ほとんどの人が非課税世帯の状態だったのに保険に加入させて年金保険料を支払ってもらおうとするのはほぼ不可能という考えではありましたが、そこは国民年金保険料免除制度を導入する事ですべてをカバーして国民年金に国民すべてが加入できるようになった。まあ、支払えない間は免除にして支払える時に支払ってもらおうと。そんな事が重なって、たまたま偶然にも国民皆保険と国民皆年金が昭和36年4月に達成された

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