全然関係ないですが、1967年10月31日の吉田茂さんの国葬については私は覚えていまして、当時小学校の6年生でした。号外か新聞の一面だったか忘れましたが、亡くなったのは10月20日。そのときに、それまではろくに見たこともなかった吉田さんの顔が写真で大きく載った、新聞に。そのイメージが強すぎて、私ははなぜか学校の図工の授業で、粘土で何かを作る課題の時、吉田茂さんの顔を作ろうとして、実際に作りました。一生懸命に頭に思い浮かべながら作っていたときに、気がついたら自分のおばあちゃんの顔になっていたんですよ。別に吉田さんが嫌いだったわけではないですよ、当時。おばあちゃんはまだ生きていたのですが、気がついたら「なんか、ばあちゃんの顔に似てきたな」というふうに当時6年2組の私は感じました。
そして今、その粘土の像は書斎の棚に飾ってあるのですが、そういうことでしたね。国葬については当時から議論があった。吉田さんの場合、亡くなったのが10月20日で国葬が31日。病気でしたから、危篤状態からどのくらいだったかは今となっては分からないのですが、ある種の準備があってわずか11日後に国葬が実現したのかもしれません。今度の場合は亡くなったのが7月8日、国葬は9月27日、2ヶ月と19日後ということになる。ざっと7週間も間が開く。亡くなり方が違うので比較は同じようには出来ませんが、かなり後に設定された国葬、という感じがします。海外から参加する国家元首がおられるかもしれないとか、新型コロナのこともあるでしょう。そう簡単にはできない、準備が必要ということはあるでしょうが。
それにしても、9月27日までに何があるかを考えれば、政治が非常に大きく動く数週間になる。というのは、安倍派のトップがいなくなったわけですよね。すると、100人からの議員が今も自分たちは安倍派の一員と言っていますが、そのうち、言っていられなくなる。どこかに中心を求めて求心力を求めて動いていく人たちがいる。そこに政権を持っている岸田さんが関心を持たないわけがないじゃないですか。党内の力関係で岸田派が第4派閥に過ぎない。どう考えるか。とても興味深いことに、これから内閣の改造がある、これを利用しつつ党内の力関係が9月27日までに色々動いて、ある形になっていくのだと思います。その形かこの先の政治の動き、とくに国会の動きとして大きな意味を持ってくるのではないかというふうに思っております。
ちょっと気に入らないのは、メディアでは、国葬にすることについて大方の日本人が賛成してるような言い方をした後で、「一部野党の反対がある」という言い方をするんだね。あれ変だよね。一部野党、もう判で押したように司会者などがそんなことを言う。テレビ朝日の玉川徹はさすがに偉くって、司会者が「一部」と言ったのを、「今、一部という発言があったけど、38%の人が反対しているのを『一部』とは言えないのではないか」というふうに言っていました。そういうところで」微妙なところで意識のコントロールをしようという意図も見えてくるので、こういうのは気をつけなければならないなと思います。
(『uttiiジャーナル』2022年7月24日号より一部抜粋。全てお読みになりたい方はご登録ください)
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