■行いながら、書き換える
そうして作ったリストは、当然ながら不完全です。情報としてはまったく足りていません。よって、一日を過ごしながら、その内容を書き換えていきます。
たとえば、リストに書いていないことを思いついて、それを「やろう」と思ったならば、リストに追加してから実行します。あるいは、実行した後にリストに追加して、軽やかにチェックマークをつけておきます。
タスクリストの目的が、「これからやること」の管理だとすれば、上記のような使い方はまったくもって無意味か、本末転倒でしょう。「すでにやったことを、リストに書き加える」なんてことは、管理の役には立ちそうもありません。そんなことに時間を使っている暇があるならば、別のことに手を動かせ、と誰かが言ってきそうな気がします(妄想です)。
しかし、「やったこと」であっても、リストに加えてチェックマークをつけることで、私の中に「整合性」の感覚が生まれてきます。自分の行動履歴がここにあるのだ、という感覚です。
朝一の段階でやろうと決めたことも、どこかの時点でやろうと思ったことも、どちらも「自分の意思が介在した」行為であることには違いありません。片方を記録に残しながら、もう片方を残さないのは整合性がないでしょう。
一方で、「やろう」と思っていなかった行為はリストには書き加えません。Twitterへの脱線とか、そうしたことは記入しないのです。
これは記録の完全性という点では不十分なアプローチです。それこそタスクシュートのように一切の行動を貴賎なく入力し、使途不明時間をなくしていく方が、全体的な信頼度や生産性の向上には役立つはずです。
しかし、「そこまで必要なのかな」と私は思います。そこまでの強度のデータが必要なのか、と。それよりも、多少の使途不明時間が含まれている、ちょっとファジーな認識くらいがちょうどいいのではないかと感じています。
少なくとも、その強度の管理であれば自分は続けていける、というのはたしかな事実です。
■以前のリスト
私が以前作っていたデイリータスクリストはもっと強度の強いものでした。完璧な管理を目指していたのです。
まずカレンダーと連携することでその日のスケジュールが挿入される。さらに、ウィークリーリストと連携してその曜日に割り当てた作業が入る。さらにさらに、プロジェクトノートと連携して各種プロジェクトの「次の行動」が入り、日課としている作業も追加される……。
最終的にはそんな「完璧」なツールを作ることはできませんでしたが、むしろそれで良かったと今は感じています。そこに立ち現れるであろう圧倒的な「窮屈さ」が今なら想像できるからです。
きっと最初のうちは、ちまちまとリストを作る手間から開放される自動化の力を称賛するでしょう。「やっぱり、デジタルはこうでなくっちゃ」と。
しかし二週間も経つと、毎朝目の前に完璧なリストが表示されるのに嫌気が差しはじめます。テンプレート化された情報群から生成される、テンプレート的な「今日のリスト」。そこにある、動かしがたい束縛感が嫌になってくるのです。
断っておきますと、「同じような毎日を送る」ことが嫌なわけではありません。実際私は、毎日同じような生活を送っています。原稿を書く、妻の送り迎えをする、家事をする、本を読む、原稿を書く、……。
そのような生活のリズムが安定しているほど、仕事の進捗も確かなものになります。同じような毎日が送れることを欲しているとすら言えるでしょう。
しかし、テンプレート化された「今日のリスト」が自動的に提示されるのは、堪え難いものがあります。その二つには、埋められないほどの差があるのです。
私が「生産性向上に向けたタスク管理」を放り出した理由