■子どものような嫌いかた
では、何がそんなに嫌なのでしょうか。
それについて考えてみると、子どものような理由に思い当たりました。
「その日、特にやりたいと思っているわけではないタスクが入っているから」
ようはこういうことです。「同じような毎日」を送っているにせよ、それは厳密には「同じ毎日」ではない。確実に微細な違いがある。月から水曜日までやったことを木曜日と金曜日はやらないかもしれない。それも「なんとなく気が乗らないから」みたいな些細な理由でやらないかもしれない。
にもかかわらず、テンプレート化された「今日のリスト」には、ばっちりとそれがタスクとして記載されています。それが気にくわないのです。
「いやいや、やらないならやらないで消せばいいだけじゃん」
と思われるでしょう。私も思います。でもこの話はそう簡単ではないのです。
そうしてやらないことが「やること」として記載されているリストを見ると、「ああ、こいつ俺のことがわかっていないな」という感じがしてしまうのです。強く言えば、不信感が湧くのです。弱く言えば、あまり信頼できなくなるのです。
実際にその通りでしょう。そのテンプレートを作ったときの私は、あくまで抽象的な「一週間の過ごし方」をイメージしていただけで、2022年8月31日の自分がどういう感じなのかを具体的にイメージしたわけではありません。むしろ、そんなイメージを立ち上げていては、抽象的な役割を持つテンプレートなど作れないでしょう。
このような感覚の乖離から、私は目の前に提示されたリストを「自分のもの」だとは思えなくなるのです。もっと感覚的に言えば、「そこに書いてある通りに作業を進めたくない」という気持ちが湧いてくるのです(あるいは、進めようという気持ちが減退するのです)。
結局、なんでもかんでもをそのテンプレートにつっこもうとしたのが問題だったのでしょう。完璧なリストを作ることとは、些細なことまで抜け漏れなく項目を列挙することなのですから、当然「なんでもかんでも」が詰め込まれることになります。重要度の高低を無視して、その日の自分にとってどうでもいいと思えることまでがリストに盛り込まれてしまうのです。
そんなリストを使い続けたいとは、(少なくとも私は)思えません。
■仕方なく管理を手放した
私の場合は、意図的に上記のような管理をやめたわけではなく、体調を崩して一年ほど「ほぼ休業状態」になったことがきっかけで、管理の手法が切り替わりました。
不調の時期は、一切の「生産性向上に向けたタスク管理」を放り出して、「ただその日を生きる」ことを目指していました。それだけができることの精いっぱいだったからです。
そこから少しずつ回復し、一日に一つ「やること」をリストに書き込むようになり、今はだいたい3~5個くらいの「やること」を記入するようになっています。そして、それでも十分という気がしています。
もちろん、細かいことを記入しなくなったので、以前に比べてやり忘れることは増えました。抜けや漏れもあります。一日に為せる行為の総数を単純生産性と呼ぶならば、現状の私の単純生産性はガタ落ちの状況にあります。
一方で、それで仕事ができていないかといえば、そんなことはありません。重要な部分は外していないからです。だったらも、それでいいでしょう。そんな割り切りが今の私にはあります。
むしろ、昔の私は何かを見ているようで、その実、ぜんぜん見えていなかったのでしょう。仕事について、生きることについて、その他もろもろについて。(次回につづく)
※ 本記事は有料メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2022年9月5日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。
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