「カツ丼でございます」では守ることが出来ない身の安全
もう一つ、「なります」というのも背景には複雑なメカニズムがあるようです。
確かに、森田氏の言う、店員から言われる「カツ丼になります」という表現について、「カツ丼になっているものが運ばれてきている。“なります”なら、パン粉とか卵とか(具材を)用意して」という主張は分からないではありません。
「はい、これがカツですが、これを玉ねぎと卵とじにしてご飯にかければ、カツ丼に『なります』。」
というのが正統日本語です。ですが、現在の外食などの現場では、既にカツ丼に「なった」ものを、
「こちらがカツ丼になります。」
と言って提供することになっています。しかし、これも日本語の乱れではありません。
現代のサービス業においては、色々と批判があるものの、依然として「お客様は神様」であり、サービス提供者は「これに奉仕する者」という絶対的な上下関係がデフォルトとしてあります。
そんな中では、サービス提供者は「自分の責任で何かを宣言する権利」は与えられていません。例えば、
「こちらがカツ丼でございます」
と宣言すると、自分の発語として「これはカツ丼である」という絶対的な宣言を相手に押し付けることになります。残念ながら、心の奥底にはブラックホールのような闇を抱えつつ、金銭を払う側に立つことで束の間の権力者気分を味わっている消費者には、これでは通用しません。
「何?これはカツ丼だと、お前の責任で堂々と宣言しやがって」
ということになります。宣言(ステートメント)として強すぎるし、堂々とし過ぎなのです。そこで、万が一認識にズレがあった場合に、カチンと来る、つまり「メンヘラ客」の地雷に対して、発火装置を踏んでしまうことになります。
「何だと、俺様は味噌カツ丼(あるいはソースやデミグラでもいいですが)を頼んだんだ。卵とじなんて持ってきやがって」
と見事に発火して、サービス提供者のメンタルに対する傷害行為に及ぶわけです。これでは、労働者を守ることはできません。
“変化”を表しているわけではない「なります」表現
そこで考えられたのが「なります」表現です。これは、日本語の2,000年の神秘が醸し出す「奥義」と言いますか「マジック」とでも言うべきもので、日本語ならではの「秘技」です。
どういうメカニズムかと言うと、
「こちらがカツ丼になります」
という場合の「なります」というのは、「AがBになる」という変化を表現しているのではないのです。そうではなくて、「全宇宙の真理、あるいは母なる大自然の摂理として、私ごとき一個人の存在とか認識ではなく、そんなチッポケなものは、はるかに超越した事実として、摩訶不思議で圧倒的な事実として、そもそもAはカツ丼というモノに既に『なっているのである』」という意味です。
自分などという小さな存在は消滅してしまい、大自然、全宇宙の真理としてカツ丼はカツ丼に「なっている」という一種の宗教的なご託宣としての「カツ丼宣言」ということです。
つまり、私が言っているのではなく、大宇宙なりヤオヨロズの神といいますか、あるいは全くの空っぽの大前提と言いますか、とにかく「カツ丼になっている」というのは私が言っているのではなく、どうしようもない既成の事実であり、自分は結果として伝えている「だけ」ということです。
ですから、どんなに闇を抱えたメンヘラ消費者でも、この「なります」宣言に対しては「ハハー」とひれ伏すしか無いわけで、かなりリスクを抱えた客でも、「ブチ切れ」に至る可能性を減らすことができるわけです。
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