指導者は自分の中の「平等」の判断基準が、世間のものとズレていないという前提で、すべての子供や部下に平等に接していると思っています。でもそれは、「自分の価値観の中での平等」であって、別の人の価値観では「贔屓」になるということなのです。
「僕は自分の価値観において平等に接します」というのと「僕は贔屓します」というのは同じことを言っているんですね。
ところが「贔屓」という言葉に対する嫌悪感から「贔屓をしない」と決めたがる先生が多い。でもそうすると自分の価値観において平等に接することもできなくなっていく。やっていることは同じことですから。
がんじがらめになって、何をしていいかわからなくなってしまう人も出てきてしまう。
だから、教室や職場においても事前に生徒や保護者、部下に対して「教育のトリアージ宣言」をしておくことが大事。
大切なのは平等に接することでも、贔屓をしないことでもない。自分の教育理念を相手に伝えて、納得してもらい、それに忠実に相手を助けること。
子どもたちには、頑張って他の人が手にできない何かを得た人を見たときに「贔屓」という言葉を盾に、頑張っている人の足を引っ張るような大人にはなってほしくないんですよね。
「贔屓」という言葉に嫌悪感を抱かずに、社会に出てもらいたい。そうすれば、子供の頃からずっと、「どうしたらご贔屓さんを増やせるか」「どうしたら贔屓される人になれるか」ということを考えたまま大人になれますから。それを考え、行動するということは、社会に出る前の大切な訓練になる。
というわけで、今週の一言。
「平等じゃなくてもいい。気になる子にはやってあげたいことを全力でやればいい」
「私はそんな人です」
と一言事前に説明して、「納得」してもらっていれば「贔屓だ!」なんて騒ぎ立てることはありません。子どもたちだって『トリアージ』は理解できますから。
村民の皆様にはもう一言。
いつも、ご贔屓にしていただき、ありがとうございます。
また来週。
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