動きの束縛
そういう状態は、非常に窮屈です。「動き」が取れないのです。無知を認めなければ有知には至れませんし、失敗を認められなければ修正も反省もできません。つまり、その時点の状態に居続けることになるわけです。そこでは変化が拒絶されています。
たしかにそうしたことを口にすると、ちょっとした恥くらいはかくかもしれません。顔が赤くなるくらいのことは起こるでしょう。でも、その「やや恥」状態と、変化を拒絶して同じ状態に居続ける状態を天秤にかけたらどうでしょうか。どちらがより好ましい(あるいはまだマシ)な状態と言えるでしょうか。
物事をより深く経験するために「身銭を切る」ことが大切だと言われますが、おそらくそうした「ちょっとした恥をかく」経験も同じようなカテゴリーとしてまとめられるでしょう。部分的に「損」に思えるようなことが発生したとしても、より大きな視点で見れば「得」なことにつながる扉が開いている、というような。
さいごに
「ちょっとした恥をかく」を受け入れることは、プライドを手放すことだと言えます。もっと言えば、自分の体面や権威よりも重要なものがあるのだとしっかり認識することです。
そして、逆説的なようですが、そうした認識にこそ真の「プライド」的なものが宿ってくるのでしょう。ただし、そうしたものをきつく握りしめるのではなく、遠くの方にある目標として見据えるという違いはありそうですが。
(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2023年6月26日号より一部抜粋)
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