「何とか私を安倍派の会長に…」と森元首相の前で土下座した“小物政治家”の実名

 

下村博文が森喜朗に働いた「無礼」

思い出すのは、森氏が東京五輪組織委員会会長だったころ、新国立競技場の建設計画をめぐって当時の下村文科大臣との間に生まれた軋轢だ。

当初予算1,300億円が3,000億円に膨れ上がったザハ・ハディド氏による新国立競技場建設案をやめるよう当時の安倍首相に進言した下村文科相は2015年6月下旬、その説明のため森氏のもとへ赴いた。

新たに設計をやり直すとなれば、ラグビーW杯を新国立競技場で行うという森氏の望みが断たれるため、話し合いは決裂した。最終的には安倍首相の説得で引き下がったものの、森氏は下村文科相への批判を強めた。

同年7月21日の関連会合で、下村文科相が途中退席したことにさえ森氏は「呼びかけた下村文科相がただちに退出するというのは極めて非礼だ」と不快感をあらわにしたことがあった。

それから8年の時を経て、下村氏に安倍派の後継会長レースというチャンスがめぐってきた。好悪の感情が激しく執念深い森氏の性格を承知のうえ、森氏に頭を下げる覚悟で下村氏は森事務所を訪れたのだろうが、森氏は「今までのご無礼」という言葉で過去の記憶がよみがえったのか、激しく反応した。

現在、安倍派は暫定措置として、派閥の最古参である塩谷氏(衆院10期)と下村氏(衆院9期)の二人の会長代理による「双頭」で運営する形をとっている。このところ森氏の了解のうえで持ち上がっているのが、塩谷氏を座長として「5人衆」をメンバーとする常任幹事会を新設するという案だ。森氏としては、総理への野心を持たず、自分にとって扱いやすい塩谷氏を「5人衆」の上に置いておくのが得策だと思っているのだろう。

下村氏にとって不都合なのは、自分の名前がこの中に無いことである。明らかに後継体制から下村氏を排除する意図が感じられる。そこで下村氏は矢も楯もたまらず、森氏に直談判に及んだが、一蹴されたというわけだ。

その後の8月10日午前、冒頭の記事のように、下村氏は国会内で塩谷氏との会談にのぞんでいた。塩谷氏は、森氏の了解を得た案をもとに、自らを事実上トップの座長とするよう要請したが、下村氏は「座長ではなく、会長を決めるべきだ」と主張し、“下村外し”の動きを牽制した。

しかし、どう見ても下村氏は分が悪い。安倍晋三氏が体調を壊して首相辞任を表明したさい、すぐに自身の総裁選出馬を画策し、派内で顰蹙を買ったのも響いている。人望は無いが、欲の皮、面の皮だけは厚いイメージがつきまとう。

ただし、人望という点では、「5人衆」とて、大きな顔をしていられないだろう。誰が会長になっても、100人規模に膨れ上がった派閥をまとめていくのは並大抵ではない。むしろ下手に会長を決めると、分裂につながりかねないのではないか。

清和会は、もともと「鉄の結束」を誇れる集団ではない。とりわけ、会長だった安倍元首相の父、晋太郎氏が1991年に亡くなった後の主導権争いは熾烈を極めた。清和会事務総長・三塚博氏と、党政調会長・加藤六月氏のいわゆる「三六戦争」である。

このとき、最初は加藤氏を支持しながら、加藤氏の形勢が悪くなったのを見て三塚氏の側につき、三塚会長を誕生させたのが森喜朗氏だった。加藤氏は派閥を追われて離党した。三塚派になってからは、森氏と亀井静香氏との派内対立が激しくなり、1998年には亀井氏が仲間とともに同派を離脱した。その後、森氏が三塚氏から派閥を継承し、後任会長となった。

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