「病・貧・争」のすべてを体験した池田大作
創価学会は、1930(昭和5)年11月18日、牧口常三郎初代会長と戸田城聖二代会長(当時理事長)によって創立。
この日は、牧口会長の『創価教育学体系』第一巻が発行された日であるが、同書の奥付に戦前の会名「創価教育学会」の名称が初めて現れたことをもち、この日を創価学会の「創立の日」する(*2)。
第二次世界大戦中、戦争への動員強化のために国家神道を中心とする宗教・思想の統制を図るため、軍部政府は創価学会を弾圧。牧口会長や戸田理事長を含む21名の幹部が捕らえられ、当時3,000世帯あった組織は壊滅的な打撃を受ける。
牧口会長は昭和19(1944)年11月18日、獄中で命を落とす。昭和20(1945)年7月3日に出獄した戸田理事長は、戦後、学会の再建を一人で決意し、会名を「創価学会」と改めて再出発。
そして、昭和26(1951)年5月3日には、会員の総意を受けて第二代会長に就任。以後、昭和33(1958)年までに会員世帯は75万世帯をこえた。
一方、池田大作氏は、1928年1月2日に、現在の大田区大森北2丁目あたりで誕生。両親は海苔業者であり、6人兄弟の第6子(五男)として生まれました。本名は太作(のちに改名して大作)。
創価学会側が出版している『年譜・池田大作』(第三文明社刊、以下『年譜』と略)によれば、7歳頃から、父・子之吉がリューマチで寝込むようになる。その後、彼は家業の海苔作りを手伝い始めたと記述されている。
戦時中は兄たちの出征により、池田氏の生活はますます貧しくなる。しかし、戦争が終わったとしても、彼の生活は変わらない。極貧の上に、彼は結核にまで侵されていた。
ジャーナリストの溝口敦氏は、『池田大作ドキュメント 堕ちた庶民の神』で、
〈ふつう新興宗教に入信する動機は、一口に病・貧・争といわれるが、池田はそのすべてを体験したわけである〉
と指摘している。
「闇金」の営業部長としてメキメキと頭角を現す
さきの『年譜』は、池田氏と創価学会の出会いを以下のように記している。
〈47年(19歳) 8月14日 小学校時代の同級生に誘われ、創価学会の座談会に、「協友会」の友人二人を伴って出席(蒲田・三宅ゆたか宅)。戸田城聖と出会う〉
これは、学会・池田氏の「正史」だ。池田氏の貧困からの脱出ストーリー、学会への入信、さらに現在に至るサクセス物語には、しばしば美談に仕立て上げられている。しかし、この戸田氏との出会いは虚偽だ(*3)。
「いま創価学会で言われているような、池田と戸田先生の伝説的な出会いはそこではありませんでした」
と週刊新潮の取材に対し、三宅家の娘の妙子さんはいう。
「『人間革命』や学会の書物には、美化された出会いが描かれていますが、その日、我が家には戸田先生はいらっしゃらなかったのです。もちろん、池田は詩も詠んでいませんでしたよ。彼は我が家に来てから、10日後に入信します。私は池田にデートに誘われ、日比谷に映画を見に行ったこともあるので、当時のことはよく覚えています。あの頃の池田は、“今に見ていて下さい、僕のこれからを見て下さい”と、よく言っていました。上昇志向が非常に強い人でした」(*4)
と妙子さん。
創価学会に入信し、戸田と出会った池田氏は、やがて権力への階段を駆け上がっていく。大蔵商事という会社があった。
当時、戸田が自分の愛人らを役員に据え、小口金融、今でいう消費者金融の大蔵商事を設立、ここでメキメキ頭角を現したのが池田氏だったのだ。
池田氏は、この大蔵商事営業部長という職をきっかけに一気にそれまでの貧困から抜け出し、創価学会第3代会長への道へ。
その創価学会の布教活動に利用されているのが、「聖教新聞」だ。1951年4月20日に創刊され、しだいに発行の頻度が高くなり、1965年からは日刊に。
宗教教団の出している日刊の新聞は現在、統一教会(現在は世界平和統一家庭連合)系の『世界日報』と『聖教新聞』だけだ。
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