なぜ海外は「日本人の危機突破力」に驚嘆するのか?能登地震で再認識された節度と忍耐、不撓不屈のニッポン精神

 

ペリーが感嘆した「日本人の特性たる反撥力」

開国の年である1854年12月23日(安政元年11月4日)、東海沖にM8・4の地震が起こり、さらにその32時間後に同規模の地震が南海沖にも起きました。この安政南海大地震による津波は房総半島から九州までの太平洋沿岸を襲い、死者は3万人、全壊家屋2万戸、消失、流失家屋それぞれ6千余戸という大惨事でした。

ペリーは、地震に遭遇した日本人について、次のように記述しています。

「地震によつて生じた災禍にも拘(かか)はらず、日本人の特性たる反撥力が表はれてゐた。その特性はよく彼等の精力を証するものであつた。彼等は落胆せず、不幸に泣かず、男らしく仕事にとりかかり、意気阻喪することも殆(ほとん)どないやうであつた」(『ペルリ提督日本遠征記』四、土屋喬雄・玉城肇訳、岩波文庫)

さらに、デンマーク人であり、フランス艦隊の一士官として1866年、幕末の日本を訪れて1年間ほど滞在したエドゥアルド・スエンソン(1842~1921)は、横浜の大半が焼失したという1866年の横浜大火に遭遇した際、日本人の精神力の強さを著書『江戸幕末滞在記』(長島要一訳、講談社学術文庫)で次のように称えました。

「日本人はいつに変わらぬ陽気さ暢気さを保っていた。不幸に襲われたことをいつまでも嘆いて時間を無駄にしたりしなかった。持ち物すべてを失ったにもかかわらずにである」

「日本人の性格中、異彩を放つのが、不幸や廃墟を前にして発揮される勇気と沈着である」

日本人の「再び立ち上がる力」は世界トップレベル

一方で、日本人には予想以上に再建力があります。

たとえば、1876年6月7日、東大医学部の前身である東京医学校に生理学兼内科医学教授として29歳で来日したドイツ人、エルヴィン・フォン・ベルツ(1849~1913)は、日本橋から京橋まで1万戸消失した同年11月の「東京大火」を目撃したが、その後の復興について、こう述べています。

「日本人とは驚嘆すべき国民である!今日午後、火災があってから三十六時間たつかたたぬかに、はや現場ではせいぜい板小屋と称すべき程度のものではあるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる」(『ベルツの日記』菅沼竜太郎訳、岩波文庫)

1884年に来日、人力車で各地を回り、日本の桜を愛し、ワシントンのポトマック河畔への植樹に貢献したことで知られるエリザ・R・シドモア(1856~1928)が見た復興の様子はもっと早いものでした。

「焦土と化したばかりの場所に日本家屋が建て直されるスピードは驚嘆に値し、比類がない。大火のあと十二時間のうちに、小さな店の主人は元の所で商売を再開してしまうのだ」(『日本・人力車旅情』恩地光夫訳、有隣堂)

多くの外国人が来日するようになった幕末からは、こうした事実が大量に海外に紹介されるようになりましたが、さらに古い戦国時代にも、外国人による同様の報告がなされています。

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