どうした日銀? 今や日本人にも信じてもらえぬ歴代総裁の影響力

 

就任当初こそ思い切った政策で話題を集めたものの、その後は今回の「マイナス金利」を含めパッとしない日銀黒田総裁。無料メルマガ『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』では、昭和の日本を動かした日銀総裁2人に焦点をあて激動の時代を振り返りながら、現在の日銀の問題点を探ります。

どうした日銀!? 統治力の疑問が残る総裁の力

日銀の「マイナス金利」導入が始動。この政策導入決定発表後から株価が乱高下したり、果たして効果があるのかということが言われている。どちらかというと今のところ必ずしもプラスの効果ではなく、「黒田氏は本当にどうしたのか? 黒田氏は大丈夫なのか?」という声もある。それと同時に「マイナス金利政策」を決定した際の日銀政策委員会の票は5対4とギリギリで可決しており、「ちゃんと日銀の中を統治できているのか」という声もあり心配になってくる。それが消費が増加しないことにつながっているのではないかという思いもあるので、ここで日銀総裁の歴史を中心に紐解いてみたい。

一番印象に残っている日銀総裁

日銀総裁で一番印象に残っているのは「一萬田尚登(いちまだ ひさと)氏」。戦後直後1946年(昭和21年)から54年(昭和29年)の10年近く日銀の総裁を務めた。これほど長期で総裁を務めた人はいないが、謹厳実直な顔をして、恐そうな感じでいかにも「日銀法王」と言われるような人だった。ローマ法王に例えられるほど権力をもっていた。なぜ権力を持っていたかというと、当時戦争直後でおカネが不足しており、日銀が許可を出さないと銀行もなかなか貸出ししなかった

日銀法王と川鉄の闘い

その中で今もなお語られているエピソードだが、川崎重工業の元にあった川崎製鉄が念願の高炉を千葉県に建設しようとした際、当時の西山弥太郎社長は何カ月もかけ金融界、製鉄業界、通産省(現・経済産業省)、千葉県などの関係部署の合意をとりつけていた。最後は「日銀法王」の許可だと一萬田氏を訪問すると、有名な「資金は今ない。川鉄だけに巨額の融資をするのはムリ。どうしても借りると言うなら、工場用地にペンペン草をはやしてやる」という言葉を言われ、日銀の力はそれくらいすごかった。

マッカーサーとも渡り合う

最終的には政治的なこともあり認可されるが、それくらい日銀総裁の力は強かった。それと同時にマッカーサーともやりあった人である。戦後直後の占領化、マッカーサーを訪問し「日本は資金不足で苦労している。日本経済の実情を言うから、私の意見を聞いてくれ。気に入らないことがあったら聞き流しても結構だ」、「今、日銀はインフレを無くし通貨を安定させ、貯蓄を推進させることによって日本を成長させたい。かつてのドイツのようなハイパーインフレのようにはしたくない」ということを述べた。マッカーサーとサシで話合ったということも一萬田氏が実力があるといわれた背景にあった。物事をはっきり言うのでマッカーサーと信頼関係を築き、謹厳実直で怖い顔だったので恐いという印象を世間にも与えており、名実ともに実力があった

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