差は、あるのか。
「機会飲酒」という言葉があります。
飲み会のときだけ、友達と食事のときだけ、お酒を飲むことをいいます。
これは一人で飲む人より、一見ずっとマシではあります。
一人で飲むと、さびしさなどからどんどん飲酒量も増えてしまいますが、人と一緒であれば、会話なども行うのでそこまで飲むことに集中することはありません。結果的に、そこまで飲酒量は多くはなくなります。
くわえて「誰かと飲む」ときにしか飲酒しないわけですので、タイミングもそこまで多くはありません。
そう考えると、「ちゃんと飲酒を楽しみ、コントロールできている人」のように思えます。
ある意味、コントロールできる人と、お酒を毎日のようにベロンベロンになるまで飲んでしまう、いわゆる「依存症」レベルの人には、差があるように思えるかもしれません。
しかし。アレン・カー氏は「そこには実は、まったくの差はない」と断言しています。
結局、食虫植物の坂の、「どの位置にいるか」の違いだけで、結局同じ食虫植物につかまっているのと同じというわけです。
機会飲酒であったり、誕生日やクリスマスなど、何かのタイミングで飲む人は、ただ単に「食虫植物の坂の、最初のほうにいる」というだけ。飲む回数が増えるほど、少しずつ少しずつ坂を進み、いつかは消化液の中に落ちる…イコール依存症になってしまいます。
結局のところ、そこに至るよりも先に、寿命が来て、死んでしまっているというだけ。そのため一見、コントロールできて、お酒を楽しんでいた、かのように思えているだけなのです。
飲み続ければ、結局は、現在依存している人と、ゴールは一緒なのです。
毒という意味で考えれば。
たとえばタバコもアルコールも「毒」であることは、言うまでもありません。
子供にタバコやアルコールを飲ませる人はいないはずです。大人が飲んでも大丈夫なのは、ある程度体力があり、多少のダメージにたいして負けないから。
それだけです。
量が過ぎれば、回復できないほどのダメージが蓄積され、体を壊すのは一緒です。
少し極端にたとえますが、体に蓄積されるダメージという意味では「ヒ素」などの毒物と一緒です。
ここで、毎日のようにヒ素を飲んでしまう人がいたとしましょう。これは間違いなく病気ですね。
では「週に1回だけ、みんなと一緒にヒ素を飲むけど、俺はコントロールできてるよ、病気じゃないよ」という人がいたらどうでしょうか。
これも間違いなく、病気だと思います。
もちろん「ヒ素」というたとえが行きすぎであるとするなら、もっとわかりやすく、麻薬でたとえてもいいかもしれません。
やはり「俺は週に1回麻薬やってるけど、病気じゃないよ」という人がいたら…?
同じく病気であり、依存していると判断されるでしょう。
普通は「ゼロ」のはずです。まったくやらない、いえやったこともないはずです。
0と1の差は非常に大きく、1と100には、そこまで差はないのです。
まさに「食虫植物の坂の、どの位置にいるか」というだけ。
一歩でも乗ったのなら、そこから消化液の中までは「地つながり」。依存している人と、依存していない人の差なんて実はなく、「1回でもやっている」「レギュラーに行っている」という時点で、同じなのです。