利用者への配慮は二の次か?巷にあふれる「正しい不親切」の弊害

 

記憶開通の快感

しかし、一方で正しい「正しい不親切」も存在するとも思うのである。 あるいは「善良なる不親切」と言えばよろしいか。

あのーおそらくは同様の感想を持たれる御同輩が多いと思われる購読者諸氏であれば必ずや賛同していただけると思うあの

「え~と、あの~、ほら、あの映画に出てた、あの女優、ほら、なんつったっけ!」

な感じ。

喉まで来ていながら出てこない、隔靴掻痒な、鼻づまりの時に香りを嗅ぐような、歯切れの悪い、痒いけど剥がせない治りかけのカサブタみたいな(もういいです)、そう、あのアレ。 アレね、周りで聞いてる時にはわかっていても教えちゃイケナイんだそうですね。

アレを頭の中でこねくり回して頭文字を50音の「ア……」から始めてなんとなく「ミ」だな、と思ったらそれにまた50音を「ミア……」、「ミイ……」と続けて探っていく(僕、そうするんですけど皆さんも同じですか? この場合はミア・ファローだったりとか)あの課程が脳を活性化させるそうですよ。 教えちゃうと「脳トレ」にならないらしい。

またそれを周りにいる人間から「オレ(アタシ)はわかってるけどね、ふふん♪」という目で見られていることがわかっているだけに悔しくて、教わりたい! でも教わりたくない。 意地でも思い出そうとするのがよろしいという。

で、ついに判明したときには、なんだか詰まった鼻が通ったときのような、風邪の治りかけにそれまでふさがっていた「耳管」が「ブッ!」という音と共に開通したときのような気持ちよさがあるわけで、してみると、自分で探り当てて「ユリイカ!」あるいは「ビンゴ!」と叫びたいほどの快感(大げさ)は「脳からのご褒美」かもしれないですね。

しかるにこの場合のこれ(知ってても教えない)は「善良な不親切」と認定してよろしいのではないかと思うのであります。

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