疎石が亀山を借景としたことには大きな意味があると伝えられています。天龍寺を夢窓疎石に創建させたのは足利尊氏でした。尊氏は後醍醐天皇を(奈良県)吉野に追放し、光明天皇を擁立し56年間に及ぶ南北朝時代という内乱の世を招いてしまいました。尊氏は後醍醐天皇を倒すまで多くの犠牲者が出ても戦をやめようとはしませんでした。疎石は内乱の犠牲者の供養を説いてまわり、戦を止めるよう尊氏を説得しました。
やがて後醍醐天皇は、1339年崩御し亀山に埋葬されました。この時、疎石は尊氏に後醍醐天皇鎮魂の寺を建てるよう直言しています。疎石にとっては、後醍醐天皇が埋葬された亀山を借景とすることこそが、天龍寺庭園の作庭の目的だったのです。
創建の際に、後醍醐天皇の南朝があった吉野から多数の桜が移植されています。天龍寺の多宝殿の廟には後醍醐天皇の木像が安置されています。この多宝殿の前庭に樹齢300年以上のしだれ桜が2本植えられています。境内には疎石が植えた300本もの吉野桜やしだれ桜が今も後醍醐天皇の魂を慰め続けています。天龍寺は紅葉の時期のみならず、桜の名所としてもとても有名な場所なのです。
京都の桜には由来があり、いわれがあります。有名な場所であるほど沢山のドラマもあります。そのシーンのいくつかの場面で桜が登場します。天龍寺の桜は今も吉野に散った後醍醐天皇の御霊を慰め続ける鎮魂の花なのです。戦国時代のワンシーンを思い浮かべながら是非訪れてみて下さい。
オマケ
京都の春の到来を告げるのは桜だけではありません。5花街の芸舞妓さんたちによる「をどり」を見逃していてはいけません。
4月は上七軒、祇園甲部、宮川町の舞踊がそれぞれ開催されますが、まずは上七軒の「北野をどり」の魅力をご堪能下さい。
● 京の都に舞う、桜の花と舞妓衆。絢爛「北野をどり」で楽しむ古都の春
いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。
image by: 京都フリー写真素材集