手術が下手、鬱の過去も。ノーベル賞の山中教授、iPS細胞発見物語

 

巨大ビジネスも始動~山中はなぜスピードにこだわるのか

そんなiPS細胞に巨大ビジネスも動き始めていた。売上げ1兆8千億円の武田薬品工業。神奈川県藤沢市にある湘南研究所は1000人の研究者が集結する、新薬開発の中枢だ。そこに山中は毎月通い詰めているという。実は山中は2年前から武田と共同で研究を行なっている。

今、iPS細胞を巡って大手製薬会社は巨額の投資をし、熾烈な新薬の開発合戦を繰り広げている。武田はiPSの主役、山中を招くことでその覇権を握ろうと考えているのだ。

一方の山中はここまで深く大手と手を組んだ理由を「製薬会社の研究の本拠地に入れていただいてチームを作ってできるということは、ここにあるすべてのリソースにアクセスできるということ。思っていた以上に効率がいい。やってよかったと思います」と、語る。

薬の開発になぜiPS細胞が重要なのか。ここではiPSの技術を使って筋ジストロフィーの患者の細胞を増やしているという。筋ジストロフィーは、筋肉細胞が破壊されていき、最悪の場合死にいたる遺伝性の難病だ。そんな難病にかかっている患者の細胞をiPS技術で初期化し、筋肉細胞に変化させると、作られた細胞には病気の症状が現れる。病気にかかった細胞を再現できることで薬の効果を驚異的なスピードで確認できるようになったのだ。

武田薬品工業の佐々勝則さんは「iPS細胞を使うことで、病気の状態を試験管レベルで再現できるようになった。iPS細胞だからこそできる技術で、大きく変わったと思います」と、語る。

大手メーカーと組んでまでスピードにこだわる山中。そこには1秒もムダにできないという強い思いがあった。

去年亡くなった日本ラグビーのトッププレイヤー平尾誠二さん。その感謝の集いで、生前、親交があった山中は治すことができなくてごめんなさい」と胸の内を語った。ノーベル賞以来、山中は自らに問いかけ続けている。「まだ一人の患者も救えていない」と。

山中の拠点は京都にある。鴨川の畔にある京都大学医学部付属病院。敷地の中心にそびえる真新しい巨大な建物が、総工費100億円を投じたiPS細胞研究所だ。

その所長を務める山中の一日は、まさに分刻みの忙しさ。同時進行する様々なiPS研究を進めながら、所長として研究資金集めにも奔走する。

「日本の普通の大学では教授ごとに部屋が区切られていて、隣の研究室が何をしているのかわからない」(山中)というが、この施設は、研究成果を素早く共有するための大部屋方式。何よりもこだわるのはやはりスピードだ。

患者さんはどんどん悪くなっていくわけですから時間との戦い。今までの研究とは比べものにならないプレッシャーもあります。いかに医療現場に届けるかが研究所全体の目標ですので」(山中)

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手術が下手な“ジャマナカくん”がノーベル賞を受賞するまで

1962年、山中は東大阪の町工場の家に生まれた。父親からは「お前は経営者に向かない医者になれ」と言われて育った。

父の言葉に従い神戸大学医学部へ。スポーツに打ち込んだ山中は10回以上も骨折。そんな中で世話になった整形外科医に憧れ自分も目指すことに決める

国立大阪病院で整形外科医として研修を始めた山中。ところが意気揚々と挑んだ最初の手術は普通なら30分ほどで行う簡単なものだったのだが、2時間かけても終わらない。そしてついたあだ名が「ジャマナカ」だった。

「患者さんは1回限りの勝負ですから、自分は緊張に弱いんだな、と」(山中)

自分は医者に向かないのではないか。そんなことを考え始めた頃、長年、肝硬変で病床にあった父がなくなった。山中は整形外科医をやめ難病を治すための研究に取り組む決意をする。1989年、大阪市立大学大学院薬理学教室に入学。長い基礎研究の闘いが始まった。

アメリカ・サンフランシスコ市内に山中のもうひとつの研究拠点がある。グラッドストーン研究所。現在も一研究者としてここでiPS細胞に関する基礎研究を続けている。ここは山中が31歳の時、初めてアメリカに渡り研究を始めた場所だ。

「アメリカには思い入れがあった。これまでやっていない新しいことをやりたかったので、アメリカに何十と手紙を書いて研究員に応募したのを覚えています。ほとんど返事は来なかったけど、最初に返事をくれたのがグラッドストーン研究所。うれしくてすぐに行くことにしました」(山中)

ここで山中の人生を変える出会いがあった。その相手とは当時、研究所長だったロバート・メーリーさん。メーリーさんは自分の愛車、フォルクスワーゲンの頭文字「V・W」にたとえて、山中にこんな話をした。

学者として成功するためにはVとWが最も重要だと教えました。VはビジョンのV、そしてWはワークハード。つまり、がむしゃらに働くだけじゃなく、ビジョンがなければいけないということです」

山中はこの話を聞き、初心に返る。

「当時はいい実験をして、いい論文を書いて、研究費をもらって、いいポストに就くというのが目標みたいになっていた。しかしよく考えると、それはビジョンではない。やはり臨床医のときに治せなかったたくさんの患者さんを自分の父親を含めて何とかしたい。そういう思いで研究者になったことを思い出して、それが自分のビジョンだ、と」(山中)

3年の研究を終え、山中は帰国する。しかしそこで山中を待っていたのは、厳しい現実だった。当時の山中を知る大阪市立大学の三浦克之教授は「アメリカの環境があまりによすぎる。日本の環境はそれにともなっていない。泣きそうになっているのも見ています」と言う。

アメリカなら専門の職員が世話をしてくれていた実験用マウス。その餌やりから掃除まで、全てが山中の仕事だった。そんな厳しい雑務に追われる中、すでにテーマと決めていた細胞の初期化の研究は一向に進まず山中は鬱状態にまでなってしまう

そんな山中を元気づけたのが、クローン羊・ドリーの誕生だった。成長した羊の一部の細胞から羊丸ごとのクローンを作れるという事実が、iPS細胞も夢ではないと確信させたのだ。

そして、奈良、京都と研究の拠点を変え、執念深く実験に明け暮れた山中を支えたのは、難病に悩む患者を助けたいという揺らぐことのないビジョンだった。  

気の遠くなるような実験を繰り返す中、ついに山中のチームは見つけ出す。山中は培養器の中で、世界で始めて細胞を初期化するために必要な4つの遺伝子を特定した。

父を亡くし基礎医学の道に足を踏み入れてから17年目のことだった。

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