自分が「信頼する」メディアである「マイ・メディア」を持たない日本は、マイ・メディアを持つ欧米が結果として惹き起こされている「分断化」までに至っていないのはよいことではある。
しかし見方を変えると、信じられるマスコミュニケーションの不在でもあり、市民の意見が反映したメディアがないことは、市民の政治参加の素地が形成されにくいことにつながっているともいえる。
伝統的なキリスト教社会に根付いている欧州、自由と正義の価値観とともにやはりキリスト教に大きな影響を受け居ている米国もどちらも「信頼する」ものを持ったうえで、日々活動し、自分の生きる規範のようなものにしていくのは、習慣化されている。
その上で党派性は、自分が社会の中で生きていることに自覚的になっていることであり、自覚的になればこそ、自分の生活の制度や枠組みを決めている政治の動向も気になることになる。
私がドイツや韓国で住んだ時に感じたカルチャーギャップは、誰もが政治的な意見を持っており、会社員も主婦も同じように政治的な主張をすることであった。
しかし、日本では市民が政治的な主張を積極的にすることはない。国会前のデモも最近は一般の方が参加するようになったものの、広く市民が気軽に参加するものになっていない。
伝統的なメディアの作り手が、社長にも会社員にも家事をする主婦にも分かりやすいニュースを届けようとするばかりに、平板化された形に収めてしまう傾向がある。
とはいえ、電車に乗れば大半がスマートフォンやタブレットで、何らかの情報に触れているのを見ると、それはデバイス(装置)としてマイ・メディアの定着は明らかで、自然と触れ合う情報は「自分が好きなコンテンツ」になってくるから、知らずのうちにマイ・メディアが形成されているはずである。
国際比較で、それが「ない」とする私たちの問題は、メディアが発信するコンテンツの問題とそもそもの政治に期待していないあきらめと無関心が根本にあるのも気付かされる。
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