それは仮面ライダーが、評論家の宇野常寛氏が言うところの「リトル・ピープルの時代」の象徴でもあるからで、昭和のウルトラマンを象徴とするビッグ・ブラザーの時代を経て、仮面ライダーのリトル・ピープル時代に移り変わる、という考え方だ。
「70年代初頭─政治の季節の終わり=ビッグ・ブラザーの壊死が始まったその瞬間に生まれた仮面ライダーはあらゆる意味においてリトル・ピープル的なヒーローだった。外宇宙(外部)から飛来した超越者だったウルトラマンとは違い、同型の改造人間たちのひとりに過ぎず、いわばショッカーの脱走兵に過ぎない仮面ライダーはこの世界に内在するヒーローだった」(『リトル・ピープルの時代』宇野常寛)
そう仮面ライダーは私たちだった。その仮面ライダーは平成の「仮面ライダークウガ」の登場から混沌とし、平成ライダー第三作の「仮面ライダー龍騎」は平成シリーズの方向性を決定づけたとされる。
この「仮面ライダー龍騎」では13人のライダーが殺し合う物語が描かれる。ウルトラマンの絶対的正義ではなく、自分の持っている小さな正義、その正義も普遍化できない不安定な時代の反映だ。それが平成なのかもしれない。
平成最後となる映画で、平成仮面ライダーの総まとめを見ながら、その複雑なストーリーに子供たちはついていけるのかを心配する自分は、昭和ライダー世代の先入観とともに、ビッグ・ブラザーの呪縛から解放されていないのも感じる。
もう大きな正義の時代は終わった、とは信じられないまま、その残像を追い続けながら年号はまた一つ新しくなる。平成の次の時代に正義はさらなる拡散に向かうのか、それとも統合されていくのか。
カラフルに彩られたライダーたちの勇姿にそれぞれの正義を見つつ、次の年号を迎えるにあたり、どのような正義が物語化され、形作られていくのか、不安な気持ちはぬぐえない。
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