「日本人らしさ」はウリにならず。世界との付き合いで重要なこと

 

この街に住んで19年。人並みに世界各国の人間と仕事し、飲んできたけれど。一度だって「彼の国の文化をよくよく理解した上で、小粋なアメリカンジョークをぶっこもう!」とか、「彼女の国の情勢を知った上で、コミュニケーションを心がけよう!」とか、気合を入れたことは一度もなかった気がします。相手方も然り。僕が日本人だから「正座して挨拶しよう」とか「意味なく何度も、会釈しよう」と試みたニューヨーカーは19年間で皆無でした。

それってある意味「日本の文化」を理解しようとしてくれていない、と言えるかもしれません。でも、もちろん、だからって、「失礼な!意味なく愛想笑いしてくれない!」とか「電話でしゃべる時は、何度もお辞儀してくれないと!!」と、僕が思うことは絶対にありません。

4杯目のワインを飲み干しながら、ジャックは続けます。「趣味や感覚が同じだから、オレたちって友達になったんじゃないの?」。僕が食べられない牡蠣を注文しながら、マシューは話します。「おまえがナニ人でも、一緒にいたし、おまえもそうだろう」。確かに、ジャックとマシューが台湾人だの、スイス人だの、と意識したことはありませんでした。

外国人とのコミュニケーションに、もちろん「異文化理解力」も、「語学力」も、当然、必要です。日本人の誠実さ、奥ゆかしさが好印象を持たれることもあるでしょう。それらを軽視するつもりはありません。でも、もっとも大切なことは、それらではないような気もします。「異文化理解力」も、「語学力」も、本当の意味でのマスターは、むしろ、コミュニケーションしながら身につけていくものなのかもしれません。

某英語学校では「パーティーの際に使えるアメリカンジョーク」のクラスがあると聞きます。でも、おそらくは、アメリカ人は、日本人からアメリカンジョークを聞きたいとは思わない。アメリカ人が日本人から聞きたいのはジャパニーズジョークなはずです。その授業で取得した「小粋なアメリカンジョーク」を披露する場所は、日本の人が考えるより少ない。

なにより、世界とコミュニケーションをする際、日本ほど「相手側の文化を理解しよう」と合言葉のように詠う国はないかもしれません。何にでも合わせるのが得意な国民性は、本番で「こいつには何の主張もないの?」と思われてしまう危険性もある。そっちの方が実際、多い気がします。

それに、必死で相手方の文化を理解し、合わせて友達になったとして、ビジネスが成立したとして、その関係を継続するためには、ずーーーーーーっっと理解し続け、合わせ続けなきゃいけないという理屈にならないだろうか。それって「友達」と言えるだろうか。そのビジネスは健全と言えるだろうか。

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