言葉の原点から
まずはまっすぐに本丸を目指そう。「ライフハックとは何か」。この言葉を、原点を含めて検討していきたい。参照するのは堀正岳氏の『ライフハック大全 プリンシプルズ』だ。本書の冒頭では欧米でのLifeHackの起こりと、その日本的な受容の歴史が考察されている。さらに本書では、著者自身によるライフハック観も提示されているが、それは後ほど参照することになるだろう。
ともかくまずは、言葉の歴史である。
言うまでもなくライフハックは純粋な日本語ではない。LifeとHackという英単語の合成語であり、2006年頃、アメリカのITアーリーアダプターの間でまずは話題になった。
2006年頃と言えば、個人向けのITがいよいよ発達の兆しを見せ始めた時代である。スマートフォンなどの新しいガジェットやそこで使えるツールなどが登場し、それと並行するように新しい仕事のスタイルも生まれてきた。当然、そこでは新しい「接面」が求められる。ツールや仕事と人間が「どう付き合うのか」という接面だ。
そこにぴたりとはまりこんだのが「ライフハック」だったと言える。
一方で、事の進行はそこまで単純なものでもなかったことがうかがえる。一番最初に米国で注目されたライフハックは、ある種「泥臭い」ものであった。生産性の高いプログラマーは、ちまちまと自作のスクリプトを作り込んでいたり、小さな習慣を繰り返すことで時間を作っていたりと、究極的に言えば「当たり前のこと」を粛々とやっている人たちであったのだ。
一方で、ある時期からライフハックは「鮮やかな」ものとして受け取られていた。何か物事をスマートに、クレバーに解決するための方法、といったニュアンスだ。そこには小さな改善を積み重ねるような泥臭さはなく、むしろ(パソコンの)ハッカーが自由気ままにパソコンを操作するような、そんなニュアンスが感じられる。なんの苦労もなく、欲する成果を得るためのノウハウ。どこからか、そうしたニュアンスが入り込んできたのかもしれない。
日本でも、『ライフハックス鮮やかな仕事術─やる気と時間を生み出すアイディア』という本が2006年の12月に出版されており、米国の受容と同じような流れを感じる。
とは言え、ここで重要なのは、アメリカにおけるライフハックがセルフヘルプ(自助)の流れの中にあったという点である。このセルフヘルプは、公的な援助に頼らないという現代の日本的な意味ではなく、むしろ大企業が提供する枠組みの中で限定された行動に甘んじるのではなく、むしろそうした枠組みに不都合や不具合があったときに、自分なりのやり方を持ってその問題を解決していこう、という姿勢のことである。
そこには、ある種の反骨精神やDIYシップとでも呼べる精神性があった。それぞれの人が、自分の人生において発生する問題を、自分なりに創意工夫と試行錯誤で解決していくという流れの中に、ライフハックは位置していたわけだ。
その点は、たとえばGTDというライフハックの代名詞とも呼べるノウハウが、その黎明期においてさまざまなアレンジ・カスタマイズを生み出していたことが証左であろう。ノウハウの提案者の言う通りにするのではなく、個々の実践者において最適なものを探求するマインドセットがそこにはあったわけだ。
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