そして、1週間前に実際に、ロシアがウクライナに戦争を始めました。つまり、戦争はやってきたのでした。でもこう書くのも、実は正しくはありません。実際のところ、アフリカでも中近東でもアジアでも今までも今も戦争は日々たくさんすでに起こっているからです。でも、それらを、また馬鹿な僕は、ただ“単に”実感していなかっただけなのかもしれません。多分それらの戦争や紛争、遠い国の人々の苦しみと、自分の人生を重ね合わせることができずに、ただ単に情報としてだけ、頭の中で処理していただけだったのかもしれません。
でも、今回のロシアのウクライナ侵攻は、その恐怖を、自分の身体を襲ってくる死の恐怖を、まるで311の原発崩壊の映像のように、僕にはリアルに実感させられるのです。それは、多分、この戦争が、本当に他人事では無いことだからかもしれません。モノゴトには、そうは言っても大小があります。今までの、今起こっている様々な戦争・紛争に比べても、このプーチンの暴挙は、多分、世界大戦を始めるような、大きな愚挙なんだと思えるからかもしれません。
そしてこの僕が、この戦争をリアルな死の恐怖として実感するのは、きっとコロナ禍をまさに今体感しているからなのかもしれないともまた思うのです。つまり、自分の身体が、自分の身体の危機に過敏になっているとでもいうか。天災、疫病と、リアルに危機を体感している中での、3度目の危機感、「二度あることは三度ある」というような実感。
約100年前のスペイン風邪からの第一次世界大戦の勃発。そこからの関東大震災からの、世界恐慌からの、満洲侵攻・日中戦争からの第二次世界大戦。77年前の広島と長崎の原爆。歴史の教科書で学んだ、情報としての世界史。そして半世紀前に僕は生まれ、それを情報として知りながらも、平和という時分に生きてきた自分。そして今、僕は実感として体感するわけです「二度あることは三度ある」という歴史という運命。天災、疫病、そして戦争。
この文章は、今回どう終わるのでしょうか。書いている自分もわかりません。だってこの始まった戦争に、今はまだ終わりは見えないから。そしてコロナ禍も、まだ終わりは見えないから。ただ少なくとも言えることは、この1週間前に戦争が始まったことで、このメルマガの文章が、個人的な悩みからは、少なくとも今解放されているとは、言えます。
それが、いいことだとは当然思えないのですが、そして実際のところ自分の個人的な悩みが無くなったわけでも、全く無いのですけれど、でもだからこそ想うわけです。夏目漱石もアーネスト・ヘミングウェイも、小説を書いたんだと。個人的な悩みをいっぱい抱えながら。でも、そして、だからこそ、この世界の危機を実感しながら、作品を産み続けたんだと。
この戦争で、僕が得た唯一のことは、この世界の危機を実感して、では自分はどう生きていくのか?という、この自分の殻に閉じこもりがちな自分の脳内の想いを、この世界に解放しなければいけないのだ、という使命を。それがこの世界に生きている、ちっぽけな自分の唯一の“実感”なんだということを。
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