岸田の苦戦は必至。二階を引っ張り出すも困難な日中関係「正常化」

 

天安門事件で友好的な流れが一気に暗転

もう1つ、内閣府の「外交に関する世論調査」の中に「中国に対する親近感」の1978(昭和53)年からの時系列データがある(★3)。これにその時々の日中間の主な出来事を書き加えたのが〔図表3〕である。

★3:「外交に関する世論調査」の概要

これを見ると、全体が3つの時期に明確に分かれていて、どういう要因が作用してそうなったかが分かる。大まかに、

  1. 国交正常化の6年後の1978年から89年までの日本人の対中国感情は、「親しみを感じる」が常時70%で推移し80年には80%近くまで達するなど、おおむね良好で、これは中国側では鄧小平時代に照応する
  2. 以後2002~03年頃までの好悪拮抗の時期は江沢民時代で
  3. 好悪が逆転しさらに悪化したのは胡錦濤から習近平の時代

――である。

(1)の基本的に友好的な流れを一気に暗転させたのは、何と言っても1989年の「天安門事件」である。人民解放軍の戦車の前にたった1人で手を広げて立ちはだかった青年の姿を映し出した映像は、すべての日本人に強烈な印象を与え、中国の独裁政権は怖いという認識を植えつけた。それは私のような、子供の頃から米人ジャーナリスト=エドガー・スノーの『中国の赤い星』を愛読し、毛沢東の革命指導と紅軍の規律正しさに憧れを抱いてきた根っからの親中派にとってはなおさら大きな衝撃で、「人民解放軍が人民に銃砲を向けたら、もうこの世はお終いだ」とさえ思ったものだった。

この記憶はある年齢以上の日本人の対中国の意識の根底に今なお広く深く残っていて、例えば2019年に香港で民主化を求める若者たちのデモが起き、当局がそれを厳しく取り締まるのを見ると、必ず1989年の暗い思い出が呼び覚まされて、目の前の出来事と重ね合わされることになる。もちろん我々ジャーナリストや研究者は、香港デモの裏には複雑な事情があり、その中には米政府の情報機関や民間のネオコン系財団などによる介入・挑発工作も混じっていることなどを知っているが、大手マスコミがそのようなことを報道することは一切なく、「香港の若者たちを中国当局が不当に弾圧している」という単純かつ一方的な図式で報道するので、その度に1989年の記憶は再生され増幅されて残っていくのである。

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