ところが、ここでいう民衆がまた問題です。議員は、票がなければ資格を失いますから、もっぱら団体や組織の票を取りに行くことになります。つまり利害関係人の言うことを聞くようになるわけで、そうなると、一部の横車を押してでも利権が欲しい人たちの団体票が、もっぱら頼みの綱になるわけです。
我が国では古来、より多くの人々の役に立つことをもって「公(おほやけ)」としてきた歴史を持ちます。ところが議会制議員の仕組みは、一部の人々の利権の代表者という形になってしまっているわけです。そうなると、もっぱら損害を被るのは、一般の、より多くの民衆ということになります。
つまり議会制民主主義は、理想型ではないけれど、他に代替のしようがないシステムといわれますけれど、根本的な間違いを実ははらんでいるのです。
一方、我が国が古代において実現した統治システムは、すべての民衆を、国家最高権威である天皇の「おほみたから」とします。すなわち政治を行う「臣」は、もっぱら民衆に尽くすことが仕事になります。
そして民衆の意向は、民衆の誰もが参加する土地の氏神様の神社に月に一度は村人全員が集まって、そこで協議され、神社の宮司によってそれが都の神祇官に上奏され、神祇官は天皇の直轄機構として、そうしてあがってきた民衆の意向を天皇に伝える。
天皇が承認しなければ、あらゆる法は実行できない仕組みですから、怪しげな、民衆のためにならない法は、そこで却下されていくという仕組みになっていました。
これは、ある意味、究極の民主主義といえる仕組みです。
日本は、明治以降、ひたすら西洋文化をありがたがってきましたが、そろそろ目を醒まして、我が国古来の秀逸なシステムについて、見直すべき時にきているといえるのではないでしょうか。
日本をかっこよく!
ではまた来週。
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