健康で長生きしたおかげで多くの利を得られた徳川家康という男

SHIZUOKA,JAPAN-JUN 05,2023:Ieyasu Tokugawa statue in Sunpu Castle Park
 

有名な真田幸村(信繁)による家康本陣への奇襲があった日、先鋒を務めるはずだった藤堂高虎勢は前日に長曾我部盛親勢との激戦で4人の重臣を含む300人の将兵を失っていた為、代わって本多忠朝、井伊直孝が担いました。忠朝は本多忠勝、直孝は井伊直政という家康を支えた猛将、勇将の息子です。

本多勢は大坂方の毛利勝永の軍勢5,000の猛攻を支えられず、忠朝は討死、後方の松平忠直は1万3,000千を超える大軍であったにもかかわらず、陣は瓦解、徳川方は二陣、三陣までもが打ち破られてしまいました。

家康の本陣までが危うくなり真田勢に攻め立てられる事態を招いてしまったのです。この時、家康は討死したという伝承が語り継がれる程、真田幸村の奮戦は凄まじく家康は命からがら敗走したのでした。しかし、大坂方の勢いもここまで、衆寡敵せず大坂城は落城しました。家康は徳川の天下を盤石にしたのです。健康で長生きしたお蔭でした。

家康が70で死んでいたらどうなったでしょう。歴史にIFはありませんが、興味深いですね。

家康亡き後、諸大名は秀忠に従ったでしょうか。難攻不落の巨大城塞である大坂城、莫大な金銀を蓄えた豊臣家、そして秀吉の遺児秀頼を天下人だと仰ぐ者、担いで徳川幕府を転覆させようとする者が現れたかもしれません。

実際、大坂の陣には秀忠が参陣していたのですから、家康は出陣しなくてもよかったのです。それが老骨に鞭打って参陣したが為に命を落としかねない激戦に巻き込まれてしまいました。

秀忠をはじめ代替わりした者たちに任せられなかったのでしょうか。それとも、根っからの戦国武将たる徳川家康は死ぬまで合戦と聞くと血が騒いだのでしょうか。

健康で長生き、生涯現役であった徳川家康、現代人から見ても凄さが感じられますね。

image by: Shutterstock.com

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