なぜ、学校はコンクール作品を「芸術」として評価できないのか?

 

さて、それでも子どもたちは全力で作品に表現をする。問題は、学校教育において、それを「評価」するという過程を経なくてはならない宿命の方である。

それを「芸術」と捉えるならば、「評価不能」が誠実な評価である。芸術(アート)とは、創造と破壊を繰り返す世界だから、評価基準は存在し得ないのである。

つまり学校教育においては「芸術作品」としてではなく、特定の指導の成果物として見ることになる。学習指導要領の指導内容に沿った「一定の基準」に照らして作品への評価を下すことになる。そうでなければコンクールの出品なぞできようがない。芸術には点数も順位もつけられないのだから、当然である。

ここに苦しむ人は多いが、現状では割り切るしかない。芸術は、その定義上、そもそも教えることができない。教えられるのは、既定の知識や技術の方である。

例えば算数において、筆算は教えるべきことである。漢字もそうである。科学的事象も歴史的事実(と思われるもの)もそうである。ここにアートはない。だから、堂々と教えればよい。

その点で、子どもの作品について、あれこれ指導することはあり得る。それは、子どもの作品を、アートとして捉えない限りにおける。「水彩絵の具の一技法」を身に付けることをねらいとしているならば、そこは指導できる。しかし、作品にあれこれ口出しをして改変させたものは、指導の成果物ではあるが、子どもの芸術的作品ではなくなる。

つまり、図画工作の指導においては、芸術は捨てて「教えている」と割り切る。体育の跳び箱指導や家庭科の調理実習における指導などに近いといえる。それは「正解」に近づける作業である。

芸術(アート)の要素は、教えられたそのずっと先にある。学んだ先に、自分で創造し表現することはあるが、それは決して誰かに教えられたものではない。やれと言われてやるものではないのである。評価されるためにやるものでもないのである。

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