各種コンクールにおいて指導者の一番の悩みポイントは、作品への「改善」提案である。「もっとこうした方がいい」という、識者からのアドバイスがある。確かに、そうした方が見栄えが断然よくなる。コンクールで高い評価を得る確率も、大いに高まるだろう。
しかしこれらを繰り返すと、作品が「誰のもの」なのかわからなくなる。いくら指導の成果物とはいえ、作品はあくまでも子どものものだからである。どこで「折り合い」をつけるかである(部活動指導などにもいえるかもしれない。厳しく指導して短期間で強くするか、生徒の自主性を重んじて待つかのジレンマである)。
そもそも「評価」は、何のためにあるのだろうか。ゴッホのように、後に「優れた芸術家」と大絶賛される人であっても、生きている内には評価されていない場合もある。それで、当人が好きな表現を続けて不幸だったのかどうかは、当の本人にしか知り得ないところである。もしかしたら、時の有力者の助言の通り描いたら、生きている内に高く評価されていたかもしれないが、それでは芸術家として死んでいるともいえる。
もっと言うと、我々は本当にゴッホやピカソの絵を見て「素晴らしい」と感じているのか。ゴッホが生きていた時代に「大画家」であることを知らずに絵を見て、そう感じそうか。先日、海外でソムリエに酷評された安ワインが大きな賞をとったことが話題になったが、さもありなんというところである。
自分がわからないことは、そもそも教えられない。ごくごく、当たり前のことである。
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