人事介入の復讐か?安倍派パー券で完全に覚醒した「特捜」の逆襲と約100年にわたる“戦いの歴史”

2023.12.12
 

検察に政治生命を奪われた多くの政治家たち

今回は、約100年間に渡る「政党政治vs検察」の戦いの流れを振り返りながら考えてみたい。約100年前、平沼赳夫衆院議員の祖父で検察官僚の平沼騏一郎が、汚職事件に関連する政治家を罪に問うかを交渉材料として、政治に対して影響力を行使しようとしたことから「政治的検察」が誕生した。その後、検察は歴史的に権力の座にある(座を狙う)政治家をターゲットにした駆け引きを繰り返して政治的影響力を高めてきた。中には、まったくのでっち上げや形式犯でしかないものを起訴することで、多くの政治家の政治生命を奪ったこともあった。

有名な事例は、1914年の「ジーメンス事件」だ。ジーメンス社東京支店のタイピストがある秘密契約書を盗み、ヘルマン支店長が日本海軍高官にリベートを渡しているとして金をゆすろうとしたことが発覚した。平沼検事総長はこれに目をつけて政治へ介入し、マスコミと帝国議会が山本権兵衛首相を泥棒呼ばわりし世論を煽った。山本内閣は議会の紛糾によって総辞職した。事件が沈静化した後、山本首相が全くの無罪であったことがわかった。

1925年、普通選挙法を議会で審議中の加藤高明内閣に平沼検事総長は接近した。そして普通選挙法の成立を検察が妨害しないことを条件として、加藤内閣に圧力をかけて治安維持法を成立させることを認めさせた。この法律によって、検察は政友会を内部崩壊させ、「議会中心主義」を標榜する民政党を攻撃し、社会主義政党や共産党を弾圧した。検察は政党政治を徹底的に破壊しようとした。

1934年、平沼は枢密院副議長として、「帝人事件」の捜査を陰で操った。中島久万吉商相、三土忠造鉄相ら政治家、大蔵官僚らを次々に逮捕し、斉藤実内閣が総辞職した。しかし、この事件は実に逮捕者約110人を出しながら、公判では最終的に、全員が無罪となった。「帝人事件」は空前のでっち上げ事件と呼ばれている。

「政治的検察」は第二次世界大戦後も生き残った。1947年4月の総選挙では社会党が第一党に躍進し、民主党と連立で片山哲内閣が発足した。保守と革新が交互で政権を担当する健全な議会制民主主義が日本に定着する可能性があった。しかし検察はこの政権を容赦なく攻撃した。

当時、政党への政治献金は届出制となっていたが、社会党の西尾末広書記長が50万円の献金を受けながら届けなかったとして起訴された。これは本来、形式犯として起訴に値しないもので、最終的に西尾は無罪となった。

更に、昭和電工の社長が占領軍の民政局や政官界に接待や献金の攻勢をかけた「昭電事件」という贈収賄事件が起きた。大蔵省主計局長・福田赳夫を筆頭に官僚13人、西尾を筆頭に政治家15人が逮捕起訴され、民間人を入れると計64人が裁判にかけられたという大事件となった。しかし、この事件も最終的に被告のほとんどが無罪となった。

西尾は議会制民主主義を志向する現実主義者であったが、この2つの事件で社会党内での発言力を失った。逆に、マルクス・レーニン主義に基づいて社会主義の衛星国を目指し、米英で発達した議会制民主主義を破壊の対象と考える左派が社会党内で実権を握った。そして、社会党が政権担当能力を持つ政党に成長する機会は断たれてしまった。

また、1976年に国内航空大手・全日空の新旅客機導入選定に絡み、田中角栄元首相が受託収賄と外国為替及び外国貿易管理法(外為法)違反の疑いで逮捕された「ロッキード事件」があった。

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