また附属学校は研究開発や人材育成といった使命が通常の学校に加えて荷重されている。そこを考えれば、公立と「全く同じ」にはできないし、わざわざ入学させる側も恐らく公立校と全く同じであることを望んでいないだろう。(そもそも公立学校と何もかも全く同じになってしまったら、附属学校の存在価値自体がない。)そこは今まで教員の努力(=深夜に及ぶ研究活動)でカバーしていたが、附属学校にも「働き方改革」の波が来ており、あまり多くの残業は許されない現状である。
私学等についても同様である。学校教育、特に進学校や私学等が大学受験を頂点とした教育構造をとっている限り、これがいたちごっこになることは避けられない。進学塾では書写も道徳も教えないが、塾の経営を考えれば当然である。(字を丁寧に書けとか道徳的な内容は教える時に伴うだろうが、あくまで教科としての話である。)
「受験学力だけではなく、生きる力や人間性を育てることが大切だ」などというのは当たり前である。教育関係者に限らず、誰しもが言われなくてもわかっているし、当然そうありたい。しかし実情は、大学入試を頂点に幼児教育に至るまで、結局受験学力が尊重される構造をとっていること。そこに落ちこぼれる人が多数いる状態であること。その構造自体を改革しない限り、根本は何も変わらないということである。
しかしながら、文科省管轄にある現場が、そこから下りてきた学習指導要領を完全無視していい道理はない。やると決まっていることに対し、やるかやらないかと頓着しないで、やるしかない。そのあたりは「工夫」の仕方次第であり、命令を「完全無視」されたら看過できないというのは当然の話かもしれない。(そもそも道徳がわざわざ教科化された背景もそこにある。)毎週の授業実施を記録する「週案」は作成に大変な面もあるが、そういう「証拠」という点では大いに役立つともいえる。
今回の事例は「対岸の火事」ではなく「他山の石」とみることが、全ての学校現場にとって大切であると考える。
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