その保元の乱で崇徳上皇に味方した傑物が藤原頼長です。
頼長は左大臣で、「悪左府」と呼ばれていました。この時代の悪は悪いというより、恐れられる程に出来る人物を称していました。
頼長は平安時代末期の朝廷に権勢を振るったものの保元の乱で敗死しました。数え37歳の若さです。頼長は切れ者と評判で妥協を許さない苛烈な人柄、朝廷で大変に恐れられたそうです。
猛烈に出来る男頼長は極めて神経質で几帳面でした。平安時代に限らず、貴族には筆まめな人が多く、数多くの日記を残していますが、頼長の日記は群を抜いて詳細な記録となっています。朝廷の中枢にいた彼は儀式、典礼に精通していたため、日記「台記」は後年の貴族にとって朝廷儀礼の教科書となりました。
それほどに貴重な資料、「台記」ですが長年に亘って封印されていました。公開されたのは戦後ですから800年近い歳月に亘って、ごく一部の人間の目にしか触れてこなかったのです。理由は明確、男色関係及び性描写の凄まじさにあります。頼長は政務や日常の暮らしばかりか、経験した性交も細大漏らさず書き残していたのです。日記によると源氏などの武士が好みであったことがわかります。
頼長に限らず貴族の間で男色は珍しくありませんでしたから源氏、平氏といった武士が台頭した背景には男色があったのかもしれません。
頼長は男色相手との性交の感想まで記しています。「乱暴にされたけど気持ちよかった」とか、「精を漏らしてしまった」などと恥じらいながら書き残しています。逞しい男に強引に男の操を奪われることに快感を得ていたようです。しかも相手は好みの男ばかりか憎い政敵とも交わっていたのでした。
昼間は政敵を容赦なく苛めるS、夜は性敵に手籠めにされるM。悪左府は政治、性事の達人でした。猛々しい男に抱かれて悦びの声を上げるか弱き悪左府、これぞ平安絵巻でしょうか。
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