プールで首を折り「最重症障害者」になった彼が、歯科医と大学教授になるまで

 

集中治療室なので、家族の面会は1日1、2回20~30分間、短く許可され、事実上24時間一人で天井だけを眺めていなければならなかった。耐え難かった。看護師たちに10分でもいいから読み物を見せてくれと言った。精神はまともなのに四肢麻痺した若い患者が可哀想だったのか、時間があるたびに順番に『本の泉』雑誌や逆境を克服した人々を扱った新聞記事など人生を肯定的に眺める文章を広げて見せてくれた。時には中国武術漫画や『スラムダンク』のようなマンガを持ってきた。

次第に希望が芽生えた。明日死んでもやりたいこと、どう考えてもそれが歯医者だった。たとえだめでも努力でもして死にたかった。すべて不可能だと言ったが、あまりにも切実だったし、あまりにも無知だった。とりあえずぶつかった。

檀国大学病院を経てソウル大学病院の集中治療室から退院した後、母親と2歳違いの兄が押してくれる車椅子に乗って学校に行った。すべての教授研究室のドアをノックした。

最初からドアを開けてくれない教授もいたし、「この学生に何ができるのか、卒業させることはできない」という厳しい言葉を吐き出す教授もいた。「頑張れ」とか「力を出せ」と言いながらも「どうやって助けてやったらいいか分からない」と困っていた。

しかし、たった一人。「やってみよう、助けてやる」と勇気づけた教授がいた。今は故人となったシン・スンチョル学長だった。「君がこんなにもやりたがっているのに、なぜ転科したり退学させたりできようか。学生が勉強したければ当然できるようにするのが教授の仕事だ。助けることはできないが、するなということはわたしの辞書にはない。途中でやめたとしても、とりあえずやってみようじゃないか」。

私を拒否されたことへの意地、私を信じてくれたことへの感謝の気持ちで、シン教授にこのように話した。「私、このままでは死にそうです。本当に死ぬ気でやり遂げる姿をお見せします」

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