プールで首を折り「最重症障害者」になった彼が、歯科医と大学教授になるまで

 

危機はたちまち訪れた。床ずれがひどくなり、お尻の骨が丸見えになるほど膿んでいた。医師は、「このままでは足を切断する以上に、死ぬこともありうる」とし、直ちに手術を勧めた。回復まで少なくとも3か月はかかる大手術だった。手術を拒否して勉強を続けた。また休学すれば、学校が絶対に二度と受け入れないような気がして、ひとまず夏休みまで待ってほしいとして持ちこたえることにした。車椅子で気絶しながら踏ん張った。

床ずれ・敗血症…。死の淵を何度も越えたのはもちろん、何人かの教授が本人の診療や実習や講義に近づくこともできないようにはばんだりもした。方法はたった一つ。バカになったように熱心にすることだけだった。

麻痺は依然としてあったが、器具を手に結んで「怪物の手」になるまで数万回練習し、またした。不思議なことに、困難に直面するたびに周囲から助けられた。その教授が席を外せば、後輩教授が診療ができるようにしてくれて、卒業基準を合わせることができた。極限の苦痛を甘受して得た歯科医師資格証に「私の努力は1%だけで、残りは周辺の人々が手を握ってくれたおかげ」と話す理由だ。

復学後、唯一の願いは歯科医だった。なってからまた壁だった。盆唐ソウル大学病院に入る前の1年間、大きな病院、小さな病院を問わず、100回以上断られた。絶望して諦めようかな、とも思った。ところが、経験が本当に怖い。一度塞がれた壁を越えてみたが、もう一度できないことはないと思えたのだ。無条件で挑戦した。実力が支えてくれるなら、壁であることを知りながらも叩くと必ずしも正門ではなくても横道くらいは作られる。

朝起きたら必ずインターネットで応募し「院長、副院長、企画室長、センター長、行政室長に変えてほしい」と電話した。ずっとメモを残した。

そのようにして合格したのが盆唐ソウル大学病院だ。05年7月に一度来て患者の診療をやってみるように言われた。テストだった。病院長・副院長・課長・行政室長が全員来て、どのように診療を行ない患者に説明するかを見守った。そして先入観のない開かれたマインドで受け入れてくれた。後で「なぜ合格させてくれたのか」と尋ねると、誰かがこのように話した。「何べんも応募してきて面倒くさいから一度来てみろと言ったのに、よくやったね 」

医師生活の初期には器具を手に縛ってやったが、傷があまりにも多かったり、患者の目にも良くないため、今は人差し指にはめる補助器具を直接注文製作して使用する。単純に見えるが、業者に騙されるなど紆余曲折と10回余りのアップグレードを経て、今の形になった。

実際の診療は別の壁だった。あるおじいさんが「あんなカタワものに診療を受けろというのか」と大声を張り上げ、また別のある中年男性は「ついてねえの」としてドアを蹴って出て行った。顔に唾を吐く人も多かった。

悪口を言いながら唾を吐いた人々、絶対に恨まない。むしろ理解する。私も診療を受けたくなかったはずだから。事故後になってやっと困っている人、人の事情が目に入った。また、自分ではなく相手の立場で考える習慣がついた。ある意味、自分が傷つかないようにそうしたようだ。悪口を言って無視する言葉を全部私の立場で受け入れていたら、心が腐って傷ついて生きていけなかっただろうから。ところが、相手の立場からまた別の視線で見れば、すべて理解できる。

そのため、怖くて診療を受けたくないのに、何も言えずに座っている患者にいつも話していた。「私は仕事が遅いです。でも実力は最高です。世の中で一番正確で几帳面に見てあげます。」真心は結局通じる。最善を尽くして6か月ほど経つと、わざわざと訪ねてくる患者がでてきた。

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