桓武天皇が平安京への遷都を決めた、ひとりの人間の「怨念」とは

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784年に奈良の平城京から都が移され、それからたった10年で平安京に都の座を譲った長岡京。なぜこんなに短期間で遷都がなされたのでしょうか。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では著者の英学(はなぶさ がく)さんが、桓武天皇が平安京への遷都を決心した、ちょっとゾッとする理由を紹介しています。

怨霊都市京都の始まり

今日は京の都・平安京は「怨霊」によって造営された場所だったという話です。京都は「怨霊都市」だと言われる所以を探ってみましょう。

恨みを残して非業の死を遂げた人の怨霊を鎮めるためにされていたこととはいったい何だったのか? 今回はその辺りに触れてみたいと思います。

桓武天皇はなぜ平安京へ遷都したのか?

桓武天皇は、奈良時代まで続いた天武天皇の血統を絶って即位した革命的な天皇です。天武天皇の子孫たちが築いてきた奈良の平城京から飛び出し、新しい都を造ろうとしたのはこのためです。桓武天皇は何から何までこれまでのしがらみを断ち切り一度リセットさせたかったのです。

奈良時代後半は、ある意味政治が仏教に振り回された時代でした。聖武天皇による東大寺の大仏建立の詔を発端に始まった大仏建立事業で民衆はよりいっそう貧困に苦しむことになりました。

称徳(しょうとく)天皇の時代には僧・道鏡(どうきょう)が天皇の位に就くことを企てるなど政局が大きく乱れました。このような状況を目の当たりにしながら育った桓武天皇は、政治の世界から仏教を排除しようと考えるようになるのです。しかし、奈良の平城京は仏教都市です。同じ場所にいる限り政教分離はできません。これが遷都を決断した大きな理由だったのです。

桓武天皇が即位してから3年後の784年に遷都を決定します。この時に築かれた都は長岡京です。しかし、長岡京の建設はすぐに頓挫してしまいます。785年、造営の責任者だった藤原種継たねつぐが暗殺されてしまう事件が起きました。平城京では遷都に対する反対意見が強く、その不満が種継暗殺を引き起こしたとされています。犯人とされたのは大伴継人(つぐひと)で、真の首謀者はこの時既に亡くなっていた大伴家持やかもち)だと言われています。

大伴家持は、多くの歌を万葉集に残した有名人で、容姿も端麗で有能官僚だったようです。彼は、平城京の旧勢力の有力な1人で最後まで桓武天皇に抵抗を続けていたと言われています。家持はまた、かつての東宮大夫(とうぐうだゆう)でした。東宮大夫とは、皇太子の世話役の中の最高責任者です。この時の皇太子は桓武天皇が次期天皇に指名していた弟の早良(さわら)親王でした。そのため桓武天皇は自分の弟・早良親王に疑いの目を向けたのです。

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